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N142 女性史・生き方・伝記    朝日新聞 ひと欄 特集 2002年
名前 職業 年齢 掲載年月日
稲岡由衣  (いなおか ゆい) 京都芸術高校3年生 17 2002/12/04
中村春子  (なかむら はるこ) 三味線修行 22 2002/11/13
丹野愛子、中田枝里  (にわ あいこ、なかだ えり) 都立高校生 17 2002/11/04
藤原佳代  (ふじわら かよ) 原油バイヤー 40 2002/10/31
林加奈子  (はやしかなこ) 映画文化財団職員 40 2002/10/31
Maliha Baraki  (マリハ・バラキ) 体育教員 37 2002/09/30
井上路望  (いのうえ ろみ) フリーター 21 2002/09/17
Marilou Diaz Abaya  (マリルー・ディアス・アバヤ) 映画監督 47 2002/09/16
伊達公子  (だて きみこ) JICAオフィシャルサポーター 31 2002/09/04
枝廣淳子  (えだひろ じゅんこ) 通訳・NPO 39 2002/09/01
高林美香  (たかばやし みか) 会社員(車椅子バスケ選手) 31 2002/08/21
石川真生  (いしかわ まお) 写真家 49 2002/08/13
笛木優子  (ふえき ゆうこ) 女優 23 2002/07/05
具志八重  (ぐし やえ) 元看護婦長 85 2002/06/24
上原彩子 (うえはら あやこ) ピアニスト 21 2002/06/23
白井由佳  (しらい ゆか) NPO「大人のADD/ADHDの会」代表 35 2002/06/20
田中ウルヴェ京  (たなかウルヴェみやこ) カウンセラー・元オリンピック選手 35 2002/06/12
杉浦幸  (すぎうらゆき) 商業施設プランナー 41 2002/06/05
三枝麻子  (さえぐさ あさこ) ユニセフ広報官 27 2002/06/03
俵萌子   (たわらもえこ) 評論家 71 2002/03/31
N142 女性史・伝記・生き方にもどる 2003年分へ
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※ メモは記事の要約と管理人の覚え書きです。 記事に関する注意事項をこちらでご覧ください



































朝日
2002/12/04
朝刊 2面 No .N142a021206m2
滋賀県/水口町
高校3年生
18
稲岡由衣 (いなおか ゆい)
シリーズ・特集; ひと  (文  柏崎 歓)
見出し:
高校野球ポスター原画コンクールで最優秀賞 稲岡由衣さん(18)
受賞はホームルームで知らされた。「まだ全然実感がわかない」
メモ :
野球のことはほとんど知らない。京都府宇治市の京都芸術高校の絵画表現コース3年生。夏休みの課題で全国高校野球選手権大会ポスターコンクールに応募することになり、困った。

甲子園の決勝を録画し、繰り返し見た。投手が落としたロージンバッグから小さな白煙が上がる。はっとした。「他の場面と全く質の違う緊張感を感じた」

その光景を切り取り、一週間で仕上げた。腰から下だけの大胆な構図、重厚な筆遣い。風に舞う白い粉が滑り止めだとも知らなかったが、投球動作に入る前の一瞬の静けさをとらえた感性が「個性的」「詩的感覚がある」と評価された。

同級生は「まじめでおとなしいけど、斬新な絵を描く」と言う。みんなで馬の像を囲んで描く時、奥行きを表現しにくい真横のアングルをあえて選ぶ。「変わった視点、面白い構図をいつも考えてる。見る人が『あれっ』と思ってくれる楽しい絵を書くのが好き。

滋賀県水口町の自宅から2時間かけて通学する。電車でよく読むのはショーとショートで知られる星新一の小説。「楽しい話しが多い」。場面から想像をふくらませて作品のヒントにすることも。自宅ではロールプレイングゲームの剣と魔法の世界にのめりこむ。

大津氏の成安造造形大学デザイン科・映像クラスへの進学が決まっている。「ゲームのグラフィックデザインを手がけてみたい」。今は1月末までに仕上げる卒業制作にかかりきりだ。

  管理人:京都芸術高校のサイト紹介と関連記事はこちらから


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朝日
2002/11/13
朝刊 3面 No .N142a021113m3
青森県/弘前市
三味線修行

22
中村春子(なかむら はるこ)
シリーズ・特集; ひと  (文 前田育穂 )
見出し:
津軽三味線全国大会で連覇し、プロを目指す  中村春子さん(22)
身長159センチ。青森に来て4センチ伸びた。「いい水と空気のお陰かな」
メモ :
子どものような手が自在に棹の上を滑る。ばちを打ちつけながら思い浮かべるのは、四季折々の津軽だ。

「雪深い冬の夜でも、家の明かりがぽつんぽつんと見えると、なにかほとするでしょ。激しさの中に、そんな温かさも感じる音色を出したい」

津軽三味線全国大会の女性部門で今年、連覇を果たした。「たたきの三味線」と呼ばれる山田流の師匠に入門して3年半。青森県弘前市に師匠が開いた居酒屋風ライブハウスが修行の場だ。接客しながら毎日2回、舞台に立つ。

三味線と出会ったのは八戸から千葉市に移った7歳の時だった。下校途中に聞こえてきた音に打たれ、立ちすくんだ。両親の反対を押し切り、9歳から近くの教室に通い始めた。

祥中学校時代、言葉のなまりなどでいじめに悩んだ。「死にたいとも思ったけど、悔しさをこめて引くといやされた。そして、明日もがんばろうかなって」

津軽三味線には、目の不自由な人がなりわいとして引いた歴史がある。12歳の時、津軽出身の祖父も目が悪く、弾き手だったことを知った。以来、楽器の重い歴史を心にとどめる。

高校卒業の翌日、千葉市の自宅を出て弘前市の師匠のもとへ。修行が終わるまで後1年半。気遣う母からの手紙はほぼ1日おきに届き、ダンボール3箱になった。でもいまは死んでも帰らない、と思っている。

独り立ちしたら真っ先に、赤いバラ100本の花束を母に贈るつもりだ。

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朝日
2002/11/04
朝刊 3面 No .No .N142a021104m3
東京都
都立高校生
17
丹野愛子、中田枝里、東京都立田無工業高校
シリーズ・特集; ひと  (文 細羽雅宏 )
見出し:
「とび」の国家技能検定に合格した高校3年生  丹野愛子さん (17) 中田枝里さん (17)
学年の女子は4人。「男よりたくましいといわれます」と中田さん。
メモ :
「資格や技術を持っている人はオーラが違う」と丹野さん。「だよね」と中田さんがうなずく。

今時の女子高生も、作業着にヘルメットをかぶり、足場に上がると見違える。「とびや大工は堂々としてカッコイイ」との言葉が、なるほどと思えた。

東京都立田無工業高校に通う。この夏、足場などを組み立てる基本的技能を国が証明する「とび」3級の資格を、同校の男子5人とともに取った。検定を実施した東京の団体も「現役高校生では初めて」という。

実技試験は、2時間以内に鉄パイプと板を使って高さ1.5mの足場を組み上げること。。梅雨時は板が雨を吸って重く、練習しても時間がかかった。時間短縮のため、パイプにつける印を減らすなどの工夫を重ねて乗り切った。

それぞれ眺めてきた背中がある。丹野さんの母は、子育てが一段落して看護士の資格を取り、働き始めた。迷っていた高校進学も、母に「手に職を持ちなさい」と言われて決めた。

中田さんの父は大工だ。物をつくりたいと思っていたから普通科高校に行く気はなかった。実習で木に触れ始めて、父と同じ道を考えるようになった。検定合格に、父は「ああ、そうか」とだけ言った。

来春、丹野さんはリフォーム会社、中田さんは工務店に就職する予定だ。施主の希望を聞き作業日程を考える。「いつか作業現場で働きたい」。必要な資格はこれからも取るつもりだ。

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朝日
2002/10/31
朝刊 3面 No .No .N142a021031m3

原油バイヤー
40
藤原佳代(ふじわらかよ)、新日本石油
シリーズ・特集; ひと  (文 永田稔 )
見出し:
日本の原油の4分の1を買いつける  藤原佳代さん (40)
「素早く判断するためには、早寝、早起きが基本です」
メモ :
新日本石油の原油バイヤーとして、今月、ロシアのウラル原油200万バレルを輸入する契約を仕切った。ロシア内陸部の原油が日本に来るのは24年ぶりだ。

ロシア原油は中東原油より輸送距離が長く、コストがかかる。しかし、米国によるイラク攻撃に備え、同社は中東以外からの原油調達を進めており、「いつか買ってやろうと、ジーっと待っていた」。国際ニュースと原油価格の動向から「今しかない」と決断し、国際石油資本と契約した。

欧米でも珍しく国内では初の女性バイヤーになって4年目。中東産油国と英語で交渉する日々だ。日量100万バレル、約30億円分を買いつける。日本の全輸入量の4分の1にあたる。「中東商人は交渉にたけていますが、腹を割って話せば分かるし、情には厚い」

商社マンの父の転勤で、9〜14歳はブルガリアで過ごした。日本の大学卒業後、豪州の化学メーカーに入ったのも、1989年に帰国して旧日本石油に移ったのも、父の転勤がきっかけだった。

物おじせず、思い切りがいい。入社2年目でタンカーを手配する担当だったとき、、湾岸戦争を迎えた。社内の反対を押し切り、1ヵ月分の原油全量を半月でペルシャ湾から運び出した。その2日後、多国籍軍のイラク空爆が始まった。

事務系初の女性管理職となる課長級の参事。「石油は男のロマン、という男社会でどこまで行けるか、自分でも楽しみ」と笑う。

12月に届くロシア原油がクリスマスプレゼントだ。

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朝日
2002/10/30
朝刊 3面 No .N142a021030m3

映画文化財団職員

40
林加奈子(はやしかなこ)
シリーズ・特集; ひと  (文 南島信也)
見出し:
「東京フィルメックス」で世界の新しい流れを発信する。 林加奈子さん  (40)
「映画は私の人生を豊かにしてくれた。恩返しをしたい」
メモ :
ベルリン、イスタンブール、カンヌ、香港……。この1年、映画作品が集まる地を訪ね歩いた。評判を耳にすれば、ビデオテープも取り寄せた。

そうやって向き合った300本から「これだ」と思った23本を、ディレクターを努める国際映画祭「第3回東京フィルメックス」(2002年12月1〜8日)で上映する。

うち6本は世界のどのスクリーンにもかかったことがない。海外の映画関係者からの注目度は高い。

「今回選んだ作品が、これからの映画界を担っていきます」と言いきる。

学生時代から映画にあこがれた。だが、どうかかわりたいのかが分からなかった。演ずること?違う。撮ること?それも違う。

川喜多記念映画文化財団の川喜多かしこさんを訪ねた。雲の上の存在だった。「とにかく映画が好きなんです」。気づくと思いを一方的にしゃべっていた。

ほほ笑んでいた川喜多さんは、最後に「その気持ちを持ち続けて」と言った。2年後、気持ちが変わってないのなら来ませんか」と電話があった。

財団で担当したのは海外への日本映画の紹介。延べ60余りの映画祭を掛けめぐり、探していたものを見つけた。それが「伝えること」だった。

東京フィルメックスでは交流を重視する。ほとんどの上映作品で、監督が観客からの質問に直接答える。

「作り手と見る側の最高の仲人でありたい。映画祭はお見合いの場なんです」


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朝日
2002/09/30
朝刊 2面 No .N142a020930m2
アフガニスタン/カブール
体育教員
37
Maliha Baraki(マリハ・バラキ)
シリーズ・特集; ひと  (文  武石英史郎)
見出し:
アジア大会でアフガニスタン選手団の旗手を務めた  マリハ・バラキさん (37)
NBA、ジョーダン……。「名前は知っているけれど見たことはない」
メモ :
カブールの女子校にあるバスケットボールコートは、ゴール板もリングもない。コンクリートの地面も、砲弾で穴だらけだった。最近、かろうじて穴埋め作業だけは終った。

「1年前まで、ここもタリバーンの神学校で、私達女性はコートに立つことさえできなかった」

いま、体育教員として毎朝6時から、20人ほどの生徒にバスケットを教えている。女性の社会進出がほとんどないこの国での活動が評価され、2002年9月29日から韓国・釜石で始まったアジア大会開会式で、同国選手団の旗手を務めた。

アフガン代表がアジア大会に参加するのは、1994年の広島大会以来になる。同じ年、南部カンダハルでタリバーンが結成された。2年後には国土の大半を支配下に収め、同国選手は国際大会に出場できなくなった。タリバーン政権のもと、女性スポーツも姿を消した。

タリバーン支配が始まるまでの10年余り、女子バスケット代表の主将を務めた。ソ連侵攻下の1980年代、レニングラード(現サンクトペテルブルク)でソ連チームの練習に参加した。

東欧の指導者の目に留まり、「国籍を変え、我が国の代表にならないか」と打診されたこともある。

選手としての全盛期は、20年以上に及ぶ国内の戦乱と重なる。

「悔しさはある。でも、新しい国旗を持って行進できたことを誇りに思います。女性に自由が戻った証なのだから」

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朝日
2002/09/17
朝刊 2面 No .No .N142a020917m2
東京都
フリーター
21
井上路望(いのうえろみ)
シリーズ・特集; ひと  (文  高橋美佐子)
見出し:
高校時代に書いた「十七歳」が映画になる  井上路望さん (21)
「少女たちも『大人なんて』と偏見を抱く。それが思春期の生々しさ」
メモ :
暮れゆく東京の繁華街で、こぼれるような笑顔と再会した。神奈川の実家で取材した3年半前は、不機嫌な高校生。「あのころは、本なんて書くんじゃなかったと思ってた」

県立高校に通う19999年3月、エッセー「十七歳」(ポプラ社)を発刊した。いじめ体験や「個性」を認めない学校への反発、女手一つで子を育てる母、体に障害を持つ兄のこと。授業中に書きとめた文章を携え出版社を回った。

「いまどきの女子高生、素顔の告白」とPRされ、売上は瞬く間に20万部を突破。息子に対するいじめの苦悩をつづった母の著書も同時出版され、一家の生き様が話題を呼んだ。

だが、マスコミに取り上げられるに従い、学校での居場所を失っていく。教師に「勘違いするな」と言われ、友がいなくなった。「妬みとわかっていてもつらかった」

2年の夏、休学して日本を脱出した。印税を留学資金にあて、アメリカの高校に2年通った。昨年帰国してフリーターになった。

今春三重での映画の撮影ロケに同行した。どこにいても違和感を抱き、大人のやることすべてに納得できない。そんな主役を演じる少女の姿に、あのころの自分を見つけて涙が出た。「同世代の共感を得た理由がやっとわかった」

もう一度、いまの自分を書きたいと思っている。池袋のマンションに一人で暮らし、雑踏のなかで新たなチャンスを探る。

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朝日
2002/09/16
朝刊 3面 No .N142a020916m3
フィリピン
映画監督
47
Marilou Diaz Abaya(マリルー・ディアス・アバヤ)
シリーズ・特集; ひと  (文  秦忠弘)
見出し:
新作でイスラム教徒を描いたフィリピンの映画監督  マリルー・ディアス・アバヤさん(47)
黒沢明監督らに傾倒。「ハリウッドと違い、日本映画には静寂がある」
メモ :
福岡映画祭で2002年9月15日に上映された新作「バゴン・ブワン(光、新たに)」には、「悲しみと恐怖」が色濃くにじむ。

部隊は、モロ・イスラム解放戦線と政府軍が戦うミンダナオ島。静かな夜、民兵に自宅を襲われ、殺される男の子。その「恐怖」と、母親の目に宿る「悲しみ」を、難民キャンプで働く医師の視点で見つめる。

飽食も、飢餓もある。世界は不公平だが、「恐怖は平等。戦争で家族を失った人も、同時多発テロを経験したブッシュ大統領も、恐怖からは逃れられない」。

比では有数の社会派監督。ロサンゼルスとロンドンで映画を学んだ。独立運動の英雄の葛藤に迫った「ホセ・リサール」は日本でも公開され、話題を呼んだ。

昨年9月11日、航空機がビルに突っ込む映像を、福岡で見た。米国は対テロ戦を宣言、アフガニスタン攻撃を始めた。「まるでイスラム全体に対する戦争のように」。ミンダナオが世界と共振したと感じた。

今回の上映に特別な意味が加わった。「マスコミはビンラディンの情報を山ほど流すが、平和を求めるイスラム教徒は取りあげない。情報の偏りが悪魔のイメージを広げている」

カトリック教徒。映画のためイスラム教を学び、その寛容さに心打たれた。

「平和を実現し、恐怖から解放されるためには、軍事力だけでは不十分。差別を感じている人々との対話が必要です。他者を知ろうとしない高慢さは、それ自体が攻撃なのです」

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朝日
2002/09/04
朝刊 3面 No .N142a020904m3

JICAオフィシャルサポーター
31
伊達公子(だてきみこ)
シリーズ・特集; ひと  (文 杉山 圭子 )
見出し:
プロテニス引退から6年 アジアに目を向け始めた  伊達公子さん
「自分たちの子供?お互い多忙で、まだなんです」
メモ :
8年間のプロ生活は、年の半分以上を海外で過ごした。1996年秋に引退するとき、「海外はもういい」と感じていたのに、今再び、各国を飛び回っている。

関心はアジアに向く。

昨春、招かれて始めて中国を訪れた。あちこちで「アジアの伊達公子」と紹介されたのが新鮮だった。「自分は日本人としか思っていなかったけれど、周りの国に仲間と見てくれる人たいがはいる」と気づいた。

訪中を機に、国内で3年続けてテニス教室「キッズテニス」をアジアの国々に広げたいと思い立った。

2001年10月にはベトナムへ。「印象的だったのは子どもたちの目の輝き。ラケットがボールに触ると全身で喜びを表現する。こちらがパワーをもらいました」

ベトナム訪問が国際協力事業団(JICA)の依頼だったところから、そのオフィシャルサポーター就任を快諾した。12月にはバングラディッシュを訪ねる。

キッズテニスの主眼はテニス選手の発掘ではない。「サッカーでも野球でもピアノでもいい。スポンジのボールを懸命に追うことで何かを感じた子どもたちが、将来夢中になれるものを見つけてくれれば」


選手時代と違い、行く先々で出会いは多彩だ。「その度に、知らない世界を吸収できるのがうれしい」

新しい目標を見つけた充実感が表情に漂う。2001年末、同い年のドイツ人カーレーサー、ミハエル・クルムさんと結婚した。第二の人生も幸せそうだ。

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朝日
2002/09/01
朝刊 3面 No .No .N142a020901m3

通訳・NPO
39
枝廣淳子(えだひろじゅんこ)
シリーズ・特集; ひと  (文  南島信也)
見出し:
環境を守る「日本の知恵」を英語で世界に発信する  枝廣淳子さん(39)
「英語をきっかけに世界が広がった。わらしべ長者みたいでしょ」
メモ :
目を覚ますのは、家族が寝静まった午前2時と決めている。

パソコンに向かうと、市民や自治体の環境保護の取り組みを調べ、英語に訳す。「八丈島で地熱発電を使った植物栽培」などの情報をメールマガジンに載せて配信する。あて先は世界各国の政府期間や大学、メディアなど1万を超える。

2002年8月末、環境情報を発信する非営利団体を立ち上げた。「ジャパン・フォー・サステナビリティ」(JFS)。持続可能な日本のビジョンを明確に描きたい、と言う思いを込めた。

10年前、専業主婦の生活を激変させたのは、大嫌いな英語だった。夫の2年間の米国留学に同行し、毎日10時間の勉強を続けるうちに、虜になった。

帰国後、同時通訳の仕事を始めてまもなく、書店で何げなく手に取ったワールドウオッチ研究所の「地球白書」が、英語と環境を結びつけた。すぐ、「ボランティアの通訳に使って」とはがきを出し、2ヶ月後には、来日したレスター・ブラウン所長(当時)の通訳をしていた。

日本は海外で環境後進国と評価されている、と通訳の現場で痛感する。「でも、江戸時代が循環型社会だったように、日本には環境を守る様々な知恵がある。優れた日本の取り組みが世界に伝わっていない」

英語を武器に、環境情報の輸入過多を正す。「情報は人々の励みになり、物事を動かす力になります」

「超朝型生活」は続く。

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朝日
2002/08/21
朝刊 3面 N142a020812m3
愛知県
会社員

31
高林美香
シリーズ・特集; ひと  (文  奥田 誠)
見出し:
アジア初の車椅子バスケ大会で世界制覇を狙う主将  高林美香さん
メモ :
銅メダルを獲得した2000年シドニー・パラリンピックでアシスト王に輝いた。「日本を含む4強はどこも勝機がある」。
北九州市で2002年8月23日から始まる世界車椅子バスケットボール選手権大会。あくまでも目標は優勝だ。

生まれつきの脊椎障害で両足が動かない。車椅子バスケをいつ知ったかは覚えていない。でも、全日本選手になる夢を小学校の卒業文集に記した。

中学2年から、大阪府吹田市で競技を始めたが、当時は女子チームがなかった。男子に混じって練習を続けた。
愛知県の日本福祉大学に入学後、念願の女子チームに所属した。みんなでお金を出し合って海外へも出かけた。

「死ぬ時に悔いが残らないよう結果を出したい」

気迫負けしない妙薬は「モーニング娘。」の元気な曲。会場へ向かう車中で聴き闘志を奮い立たせる。

勤務先は、愛知県刈谷市の自動車部品会社。車椅子の生活も、「めがねをかけるのと一緒。深刻に悩んだことはない」。

それでも周囲の手助けが必要な時もある。高校時代は毎日、2回の教室まで級友らが引き上げてくれた。さりげない優しさへの感謝の気持ちが、選手生活の支えにもなっている。

練習で訪れた豪州・パースで、印象に残る光景がある。何面もコートがある専用競技場で、健常者の中に車椅子バスケが溶け込んでいた。
日本でも健常者が加わるなどすそ野は広がりつつあるが、「障害者スポーツから一般スポーツへ」との願いにはまだ遠い。

今大会が、その一歩になればと期待する。

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朝日
2002/08/13
朝刊 3面 No .N142a020813m2
沖縄県
写真家

49
石川真生 (いしかわまお)
シリーズ・特集; ひと  (文  真鍋弘樹)
見出し:
復帰後の沖縄と共生する自分の半生を撮り続ける  石川真生さん
「被写体と密着しすぎ、何度も逃げ出したいと思った」。49歳。
メモ :
写真家になろうと決めたのは、沖縄復帰の前年だった。

高校の写真部員だった1971年、那覇市で、基地存続に反対するデモ隊にいた。目の前で火炎瓶に当たった機動隊員が焼け死んだ。「人が死ぬような運動はできない。私は写真で沖縄を表現する」。屋根づたいに逃げ、泣きながら決心した。

以後、「基地の島」という現実に負けない人々の生の姿を撮り続ける。沖縄芝居の役者、基地移転先の住民……。相手と一体化し、一緒に泣き、笑う。被写体に近づきすぎて肌まで突き通すかのような写真だ。米兵バーの女たちを題材にした時は、自分も店で働き、黒人兵と同棲した。

「相手の人生をもらい、自分の人生も差し出す。撮影というより人生の交換さぁ」。自分を表現しようとしない沖縄人にいらだつ。この島に生まれ、死ぬ人間でなければ撮れない写真がある、と叫び続けてきた。

タブーはない。先月出版した自伝「沖縄ソウル」には、20代のころのヌードや米兵と抱き合う写真も載せ、半生をさらけ出した。「他人の人生を写すのが仕事だから、自分を隠すのはずるい。表現者としての宿命ね」。その歩みが沖縄の復帰30年と重なって見える。

2年前に腎臓癌を患った。昨年末、直腸への転移で手術して人工肛門になり、5年生存率は6割と宣告された。一晩泣き明かし、体力の落ちる抗がん剤は断ろうと決めた。「誰にも明日のことなんかわからない。がんになんか負けず写真を撮り続けるのよ」

自伝にはもちろろん、人工肛門の写真も掲載した。


管理人:石川さんの図書紹介

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朝日
2002/07/05
朝刊 3面 No .N142a020705m3
韓国・日本
女優

23
笛木優子(ふえきゆうこ)
シリーズ・特集; ひと  (文 箱田哲也  )
見出し:
韓国でファンクラブの会員が1万人を超えた女優  笛木優子さん
「W杯は二つ(日韓)も応援する国があってよかった」。23歳。
メモ :
韓国ではユミンの名で活動する。

2002年6月に表紙を飾った雑誌は3冊。CM4本。ドラマやバラエティー番組にも出演した。人気は社会現象になり「韓国で成功した初の日本人女優」といわれる。

本名にちなんでつけたユミンは、「あだ名みたいなもの。私はわたし。日本とか韓国とかの区別はしていません」。

日本では「ホタル」で映画デビュー。初めての主演映画「新・雪国」を昨年撮った。しかし自己評価は落第点だった。

そんな時、「シュリ」などを見て、韓国映画のスケールの大きさに衝撃を受けた。「役者としての幅を広げたい」。短大のとき、旅行で1回訪れただけの韓国に単身で乗り込んだ。

昨年11月、韓国デビュー作となったドラマでいきなり火がついた。

韓国語をうまく話せないため、せりふのない聴覚障害者の脇役を演じた。視聴者からの反響は大きく、制作者がわざわざストーリーを変えて途中から主役に抜擢したほどだった。

昨年暮れ、新聞のインタビューで自ら日本人だと告げた。それまではファンは韓国人だと思っていた。

「ずっと好きだったのに」「ショックです」。そんな声が届いた。心ないメールも。だが、時間とともに「私は味方」というという擁護派が圧倒的になっていた。

「日韓関係ってこんなものだと思う。少し時間をかければ分かり合えるところまで来ている」。

W杯期間中は日本のテレビで、熱気あふれる韓国を紹介した。最近ドラマの主演がまた2本決まった。

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朝日
2002/06/24
朝刊 3面 No .N142a020624m2
沖縄県
元看護婦長

85
具志八重(ぐしやえ)
シリーズ・特集; ひと  (文  大久保真紀)
見出し:
沖縄戦の悲惨さを語り続ける  具志八重さん
「私は生かされてきたのだと思う」。クリスチャン。85歳
メモ :
初めて出会った人に必ず渡すものがある。デイゴの花のコサージュだ。

沖縄の県花。赤紅色の小さな花に反戦の思いを込めて自分で作ったものだ。毎年、県内外の人がそれを胸に戦跡を訪れる。

ひめゆり学徒隊などがいた避難壕、沖縄陸軍病院第3外科壕からの生き残りである。

看護婦長だった。1945年6月19日。米軍は壕に毒ガス弾を投下。生き残ったのは看護婦25人のうち6人¥、学徒隊51人中5人だけ。自らも太ももを撃ち抜かれた。

戦後は保健婦を務めた。退職後の1982年、国連で開かれた軍縮特別総会に参加し、転機を迎える。被爆地・広島、長崎は語られたが、沖縄のことは、知る人も話す人もいなかった。

生き残った自分が語らなくては、との思いから戦跡の案内を始める。証言を集め、記録も出版した。いまも、痛む足を引きずりながら、反戦集会に出て、平和学習会で体験を語る。

本土復帰30年。広大な米軍基地は依然残り、戦争は繰り返されいる。唐突な有事法制論議にも心が痛む。「戦争を知らない人たちに、裸になってでも(傷)を見せてあげたい」

10数年前、同じ壕にいた女性に出会った。壕で3人のの子を亡くした女性は毎年6月19日に壕に来ていた。「なぜ、一緒に死ねなかったのか」。互いに自分を責めながら生きてきた。

女性が亡くなる前、「命ある限り、あなたの代わりにお参りする」と誓った。

「慰霊の日」の23日、今年も無名戦没者をまつる「魂魄(こんぱく)の塔」で静かに平和を祈った。

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朝日
2002/06/23
朝刊 2面 .No .N142a020623m2
岐阜県
ピアニスト
21
上原彩子(うえはらあやこ)
シリーズ・特集; ひと  (文 嶋田数之 )
見出し:
チャイコフスキー国際コンクール ピアノ部門で優勝した  上原彩子さん
「ピアノを弾いている時、自分を日本人と感じたことはない」。21歳。
メモ :
ピアノの前では大きく見えたが、あってみると慎重150cmと小柄だ。
最終審査では最後の演奏者だった。神経が張りつめる長い時間のはずだったが、「ボーットしていたので緊張しなかった」と屈託がない。

選んだ曲目の一つはラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。自分の持ち味を最高に出せる、と自信をもってのぞんだ。師事する先生の姿を探したが、見つからない。自分だけを信じて鍵盤に向かった。

力強い演奏が終わった瞬間、オーケストラの人たちの笑顔と割れるような会場の拍手でうまく弾けたことがわかった。「やったー」と心の中でガッツポーズをした。

3歳の時母に連れられて、岐阜県各務原市の自宅近くのピアノ教室に通い始めた。10歳から英才教育のため毎週、東京に出かける生活を続けてきた。単位不足から高校は卒業まで4年半かかった。

負けず嫌い。同じ岐阜県出身のマラソンの高橋尚子選手の活躍に刺激された。サッカーのようにチームで戦うより、自分の実力だけで勝負する世界にあこがれている。

優勝が決まった直後から、滞在するモスクワのホテルに祝福の電話がかかり続け、睡眠不足気味。両親へのお土産もまだ買ってない。今一番したいのは「地元に帰って商店街をぶらぶら歩くことかなあ」。

ピアノをしていなかったら?「普通の大学生活を送っていたでしょうね」

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朝日
2002/06/20
朝刊 3面 No .N142a020620m3

NPO代表

35
白井由佳(しらいゆか)
シリーズ・特集; ひと  (文 帯金真弓 )
見出し:
注意欠陥・多動性障害の大人に「おろおろしないで」と訴える  白井由佳さん
「社会が変われば、ADHDは障害ではなくなるはず」。 35歳。
メモ :
「あなたは注意欠陥・多動性障害(ADHD)です」。2年前、精神科医にそう診断された時、かえってホッとした。「これで人生やり直せる」

何をやってもダメだった。小学校に上がっても鼻がかめず、調理実習中には服に火がついても気が付かなかった。そんなドジぶりも、短大までは「個性」と受け入れられたが、就職してすべてが一変した。

伝票が書けない、コピーがとれない、客の書類にお茶をこぼす「ダメOL」。手つかずの書類は段ボール2箱に。それを倉庫に隠し、逃げるように退社した。転職を繰り返した果てに結婚したが、家事がままならず、長女が1歳の時に離婚。再就職後は育児との両立に疲れ、うつ状態に。

そんな時、たまたま読んだ本がきっかけで、精神科へ。「生まれつきと割り切れたら、やる気が出た」

子どもの障害として知られるADHD。大人向けの情報は皆無に近い。「だったら自分で」とホームページ(www.adhd.jp)を開設すると、ワッと反響が寄せられた。「職場で怠け者扱いされる」「家が汚くて、家族に責められる」……。アクセス数は2年で57万件を超える。自助団体「大人のADD/ADHDの会」も2001年設立し代表に。

今月出版した「オロオロしなくていいんだね!」(花風社)には、苦しかった体験だけでなく、仕事や家事から化粧まで日常生活の「サバイバル術」も盛り込んだ。「ADHDを言い訳にしないで、自分を知り、やり方を見つければ、『ダメ人間』から脱出できる」


管理人:「大人のADD/ADHDの会」のサイト紹介はこちらから


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朝日
2002/06/12
朝刊 3面 No .N142a020612m3

カウンセラー

35
田中ウルヴェ京(たなかウルヴェみやこ)
シリーズ・特集; ひと  (文 大久保 泰)
見出し:
選手を支えるカウンセラーになったシンクロ銅メダリスト  田中ウルヴェ京さん
「夫はけんかも論理的。負けないよう理詰めで対抗する」。35歳。
メモ :
ソウル五輪シンクロナイズド・スイミングのデュエットの相方は、小谷美可子さんだった。ファンの目は小谷さんに集まった。

164センチと同じ身長でも足の長さは6センチ短い。「見た目がよくないからなんだ」。指先まで同じ動きをしながら、こころの奥にはずっと劣等感があった。

引退後、「環境を変えたい」と米国に渡った。そこで選手の精神面を支える様々なカウンセリングがあることを知る。ライバルとの葛藤、指導者とのあつれき、引退の悩み……。自分がやりたいのはこれだ。4年間、大学院でスポーツ心理学にのめりこんだ。

「選手にも哲学が必要」。自分の現役時代を反省し、まず、そう思った。

「闘志が他人に向いてしまう人はそこまで止まり。自分の中に意識を集中させることが不可欠」。実力を出し切るために、社会のあらゆる場面に当てはまる鉄則に思えた。

大学院で知り合ったフランス人の夫ジャンフィリップさん(32)の転勤で、海外を転々とした。昨年、夫が日本で仕事を見つけ帰国した。自らは日本大学医学部の講師として心理学を教える。

長男は3歳。近く2人目が生まれる。選手時代の悩みなどもつづったエッセー集「故意も仕事も結婚も!わくわくハピネス術」(しょういん)を4月に出版。スポーツ選手に限らず一般の人も対象にしたカウンセリング事務所「MJコンテス」を東京都内に開いた。

「めざすのはナンバーワンよりオンリーワン」。もがいた末に学んだ極意だ。

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朝日
2002/06/05
朝刊 3面 No .N142a020605m3

商業施設プランナー

41
杉浦幸 (すぎうらゆき)
シリーズ・特集; ひと  (文 松村茂雄)
見出し:
梅田「地上の顔」作りに挑んだ商業施設プランナー 杉浦幸さん
「人生かけてます」。自分のカフェも順調だという。  41歳。
メモ :
JR大阪駅南側の梅田のビル街。地下街の9分の1しかなかった同地区の地上の「閑散」を変え始めたのが、4月下旬に開業した14階建ての複合商業施設「イーマ」だ。そのプラン作りの主要メンバーに、手弁当に近い形で入った。

「西日本最大のターミナル前という潜在力を生かすには、梅田にしかない個性が必要」。そう考えて、担当した6階までの商業部分に、働く若い世代に人気のあるファッションブランド店、レストランを集めた。

地下街から人を吸い上げるために、吹き抜けや、店内に階段のある重層テナントを多様。7回より上のシネコンとともに、路面にも人通りを生み出し、「梅田の地上の顔を」と言う目標へまずまずの滑り出しだ。

出身地・大阪の広告デザイン会社から、商業施設作りを志して東京の名門事務所へ。1992年独立後、同郷の夫も加わった。新潟市の「万代シティビルボードプレイス」への評価で自信をつけたころ、「イーマ」企画に誘われた。

もう戻らないつもりだった大阪。でも閉鎖的と思っていた「大阪には大阪のやり方」と言う風情に挑んでみようと考えた。「外からではなく、具体的に表わしてみよう」と引き受けた。

テナントの保証金が高い、古い慣習に「店への投資に向けることが大切。低く抑えた方がよい」と提案したり、テナント側の希望をビル管理会社に伝える場を取り持ったり……。

「自分もリスクを背負う」と地下1階に自らカフェを出店。ビルの行く末を見守る覚悟だ。

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朝日
2002/06/03
朝刊 2面 No .No .N142a020603m2
アフガニスタン/カブール
ユニセフ広報官
27
三枝麻子(さえぐさあさこ)
シリーズ・特集; ひと  (文 坂口 智)
見出し:
国連児童基金(ユニセフ)カブール事務所の広報官  三枝麻子さん
「朝五時起床、7時には事務所。就寝は夜10時。健全な生活です」。27歳。
メモ :
長年の戦乱から、ようやく復興の道を歩み始めたアフガニスタン。イスラム原理主義勢力タリバーンの支配下で、学校に行けなかった何100万人もの子どもが、次々と学校に戻りつつある。

その手助けをするほか、ポリオワクチンの接種を広める活動にも取り組んでいる。

重要になってくるのが、子どもを抱える母親たちを説得することだ。そこで大事な出番がくる。慣習上、男性職員ではなかなか入ることができない一般家庭でも、女性だとひざをつき合わせてじっくりと話ができる。

「女性に厳しい仕事環境を予想していたが、逆にやりやすい面がある」

2002年1月、国連開発計画(UNDP)の一員として、東京でのアフガニスタン復興支援国際会議を担当したのがこの仕事のきっかけになった。

閉幕した翌日、「明日にもカブールに行く覚悟はあるか」と国連児童基金(ユニセフ)の責任者から聞かれた。即座に、「はい」と答えた。3ヶ月後には赴任した。

任期半年の予定で赴任したが、着任2週間で延長を求められ、迷いなく了承した。

「滞在は1年か2年になるかも」

英国の大学院で進化人類学を専攻。ナイジェリアのジャングルで4ヶ月間、キャンプ生活をしながらチンパンジーの生態調査をしたこともある。体力に自信を持つ。

「復興はまだ始まったばかり。世界の関心が薄れないようにしたい」

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朝日
2002/03/31
朝刊 3面 No .N142a020331m3
東京都
評論家

71
俵萌子/1・2・3で温泉に入る会
シリーズ・特集; ひと
見出し:
「1・2・3で温泉に入る会」をつくった評論家
メモ :
「手をつないでザブンと温泉に入りませんか」と、乳がんで乳房を失った女性に呼びかけている。
2001年11月、共感した女性達が集まって、「1・2・3で温泉に入る会」を発足させた。すでに会員は140人。「6月に群馬支部の会員と温泉に行きます」湯煙の立つ大浴場に入るのは久しぶりだ。

乳がんで右の乳房を切除したのは1996年。65歳だった。以来、人目が気になり、温泉に入れなかった。旅館でこっそり部屋の風呂に入る自分が不愉快でならない。そんな時やはり乳がんを手術した女性に「温泉に入れますか」と聞かれた。みんなでは入れば怖くない。会作りに取り掛かった。

手術後、50代で始めた陶器の作品展を開き、翌年には体験記を出版した。これだしはガンに勝った、通っていたのだけど、そうではなかった。傷のある、自分の体を恥じていたことに気付きました」

30代で新聞記者からフリーになり、教育、女性問題などで活発に発言し、運動に関わった。東京都中野区で全国初の準公選による教育委員も勤めた。老後は群馬県・赤城山のふもとに作った俵萌子美術館で陶芸や絵を楽しみながら暮らすつもりだった。だが、「温泉」の一言に行動派の血が騒いだ。喪失の悲しみ、再発・転移の悩みを誰もが抱いていた。

「おっぱいを失うのがどんなにむごいことか。乳房を温存する技術の向上、カルテの公開など、女達の声をあげていきたい」いい湯だな、と心からいえる日のために。
(文・写真 松井京子)

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