弁護士 | 教育者 | 政治家 |
NGO | 学生 | 芸術・文化 |
朝日新聞 「ひと」欄 | ||
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記事紹介の留意事項 |
名前 | 年齢 | 掲載紙 | 掲載年月日 |
竹本恵 | 22 | 朝日 | 2003/01/18 |
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朝日 |
2003/01/18 |
朝刊 | 15面 | No
.N142a030118m15 |
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東京都 |
東京大学4年生 |
女 |
22 |
竹本恵 |
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シリーズ・特集; Saturday Wide | ||||||||||
見出し:
完投します世界一周/東大元投手竹本恵さん/「中途半端じゃだめ」/単車で米ーアフリカ―欧州2〜3年かけ |
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メモ
: 東京六大学で日本人女性として初めて神宮球場のマウンドに立った東大教育学部4年の竹本恵さん(22)が今春の卒業後、大好きなオートバイで世界一周に挑む。「大舞台で野球をやりたい」という夢をかなえた左腕が、今度は2年以上をかけて単身の旅に出る 「思い出したくないことが多いんです」。野球に打ち込んだ大学生活は苦い思い出の方が多い。 リーグ史上初の女性選手として出場を果たした明大のジョディ・ハーラー投手にあこがれ1999年に入学。3年の春、日本人女性としてはじめてリーグ戦に出場した。だが、出場はこのシーズンだけで通算成績は4試合で計3回を投げ0勝1敗。 女性というだけで注目され、監督の期待にも応えられなかった。それでも「だれにもできないことができた」という満足感はあった。 「世界を放浪したい」という思いを高校時代から抱いていた。二輪の運転免許は2年の春に取得。250ccのオートバイで通学し、野球シーズンの合間には愛車で東北地方などへ旅に出た。「中途半端じゃ自分が許してくれない」と何事も徹底して取り組む性格から、世界一週の冒険の構想が生まれた。 計画では4月末に日本を出発し、空路米国西海岸へ。テントと寝袋を携え、オフロード用のオートバイで東海岸まで横断。南米、アフリカ大陸、欧州を経てロシアのウラジオストクから、船で実家がある新潟へ戻る。早ければ2005年夏、遅くとも2006年夏までに帰国する予定だ。 「亡くなった父なら許してくれなかったかも」。数百万円の費用は理解のある母親に頭を下げて借り、世界遺産をできるだけたくさん見るつもりだ。 すでに書き終えた卒業論文の題名は「野球の投動作の分析」。野球を研究するために教育学部を選んだが、教育実習で教える喜びを実感。高校の体育教師となり、野球部の監督をするのが、その次の目標だ。 管理人:竹本さんの「現役」時代の記事紹介「143a010410e5 東京6大学・東大女性投手・竹本 へのリンク」はこちらから |
名前 | 年齢 | 職業 | 掲載紙 | 掲載年月日 |
安福奈津子 | 22 | 無職 | 朝日 | 2002/12/04 |
ツネコ | 76 | 歌人 | 朝日 | 2003/08/06 |
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朝日 |
2003/08/06 |
朝刊 | 31面 | No .N142a030806m31 |
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大阪市/西成区 |
歌人 |
女 |
76 |
ツネコ |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: ホームレス歌人・ツネコさん逝く/西成で、76歳/路上の哀歓「語り」まとめ出版 |
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メモ : 大阪・梅田の路上で自作の歌を売り、「ホームレス歌人」として知られたツネコさんが2003年8月5日午前5時半ごろ、大阪市西成区内で亡くなった。76歳だった。通夜は6日午後7時、葬儀は7日午前10時から大阪市西成区萩之茶屋3の1の10の「ふるさとの家」で。 ハワイ移民3世。幼いころ神戸に移り住んだ。結婚したが、ギャンブルで数千万円の借金を作り離婚。67歳でホームレスになった。 「欲言わん POCKET一ぱいだけで良い 幸は私の前でまわれ右する」。そんな歌を作り、1枚100円で売った。1994年、語りをまとめた「ホームレスの詩」が出版され、一躍有名になった。 6年ほど前から生活保護を受けてアパート暮らし。2002年5月には大腸がんの手術を受けた。同11月に転んで大腿骨を折ってからは、入退院を繰り返した。 最近はホームヘルパーの介助を受けていた。2003年5月には「梅田へ行きたい」と言い出し、タクシーと車いすで梅田に出た。亡くなる前日にも小さく切ったスイカを食べて笑顔を見せた。8月5日早朝、ボランティアが亡くなっているのを見つけた。 管理人:倉元瞬氏によるツネコさんの伝記「生きる ホームレス歌人ツネコ 心の旅路」紹介はこちら。 青字部分はhttp://www.asahi.com/culture/update/0805/013.html に掲載されていた文です。 |
朝日 |
2002/12/04 |
夕刊 | 15面 | No
.N142a021204e15 |
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大阪市 |
女 | 22 |
安福奈津子 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 師走の街から/元気くれた「新世界」撮りたい |
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メモ
: 「映画を撮りました」。突然届いた手紙に、大きな文字でそう書かれていた。2年前、大阪市の成人式で取材した女性からだった。 当時、大阪・新世界にある通天閣のエレベーターガール。「夢は」と聞くと、「映画監督を目指して大阪に来たんです」と熱っぽく語ったのを思い出した。 クリスマスのイルミネーションがきらめく街角の喫茶店で、再び会った。 岡山市出身の安福美津子さん(22)。高校3年の夏、不登校になった。両親から「大学に行かせるお金がない」と言われたのがきっかけだった。友だちはみんな進路を決め、自分だけ取り残されたように感じた。家に閉じこもりがちの生活が続いた。 そんな時、新世界を舞台にした映画「どついたるねん」を見た。けがで引退したボクサーが、再起をかける物語。主人公が黙々と走る姿に、「こんなことをしている場合じゃない」と思った。 1999年3月、退学届を出して岡山を出た。目指したのは勇気をくれた街、新世界。求人を出してもなかった通天閣に飛び込み、「雇ってください」と頭を下げた。 2002年。大阪市が中心になって開校した映画塾に通い、仲間3人とドキュメンタリー映画を撮った。11月、塾生作品9本の中から最優秀に選ばれた。引きこもり経験のある24歳の女性が、立ち直っていく姿を描いた。 今、大学を目指して勉強中だ。通天閣は辞めた。新世界で大晦日を迎えるのは、今年で最後にするつもりだ。 「夢は」ともう一度尋ねた。「いつか新世界の映画を撮り、元気をくれた街の人に恩返ししたい」。元気な声が返ってきた。 ( 羽根和人) |
名前 | 年齢 | 掲載紙 | 掲載年月日 |
安保千秋 | 43 | 読売 | 2000/06/10 |
長谷川京子 | 43 | 読売 | 2000/05/13 |
川村容子 | 38 | 読売 | 2000/04/08 |
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読売 |
2000/06/10 |
夕刊 | 2 |
面 | No .N142y000610e2 |
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京都 |
弁護士 |
女 |
43 |
安保千秋/京都弁護士会 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 高校生の茶髪どう考える |
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メモ : 京都弁護士会子どもの権利委員会委員長。二女の母親。7年前に弁護士になった。高校生の茶髪をどう考えるかをホームページで広く意見募集した。 「学校は単に指導するだけでなく、生徒の意見を取り上げる体制を作ってほしい。生徒が社会との関りを学ぶチャンスにもなる」 「親も学校任せではだめ。頑張って子どもと向き合い、意思疎通していくべきです」 |
読売 |
2000/05/13 |
夕刊 | 2 |
面 | No .N142y000513e2 |
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神戸市 |
弁護士 |
女 |
43 |
長谷川京子/日本DV防止・情報センター |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 夫・恋人からの暴力根絶へ提言 |
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メモ : 「日本DV防止・情報センター」の呼びかけ人。DV対策が進むアメリカのマサチューセッツ州を視察。「DV防止法提言2000」をまとめた。 「被害女性だけでなく、子どもや他の家族まで巻き込む深刻な人権問題。まずDVが犯罪であるという認識を、社会に広めることが必要です」 「被害者を暴力の繰り返しから救うには総合的なシステム作りが急務」 |
読売 |
2000/04/08 |
夕刊 | 2 |
面 | No .N142y000408e2 |
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奈良県 |
弁護士 |
女 |
38 |
川村容子/女性への暴力・ホットライン奈良 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 家庭内暴力の駆け込み寺に |
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メモ : 「女性への暴力・ホットライン奈良」の代表。12年前から奈良県女性センターで悩み事相談をしている。 嫌だったらなぜ離婚しない、身内の問題に他人が口をはさむべきではないといった世間の無理解を変え、被害者が相談しやすい環境を作ることを優先課題に挙げる。 当面は月に1回電話相談を行うだけだが、最終的には24時間入所を受け入れ、長期滞在できる「駆け込み寺」を作りたいと夢を膨らませる。 |
名前 | 年齢 | 掲載紙 | 掲載年月日 |
九條武子 | 京都 | 2001/03/23 | |
九條武子 | 京都 | 2001/02/07 | |
甲斐和里子 | 京都 | 2001/01/16 | |
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京都 |
2001/03/23 |
朝刊 | 面 | No .N142k010323m26 |
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九條武子 |
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シリーズ・特集;先人を訪ねて 131 | ||||||||||
見出し: 九條武子 社会活動に命ささげ |
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メモ : 【九條武子】 1887(明治20)年−1928(昭和3)年。西本願寺に生まれる。 父は浄土真宗本願寺派の門主、大谷光尊。兄は西域への探検で知られる大谷光瑞。 「白いダリヤ」とも評された名だたる美人で、教養あふれる女性だった。 上村松園に絵を教わり、幼い頃から親しんだ歌は佐々木信綱に師事した。 与謝野晶子や柳原白蓮とも交わった歌人。 仏教婦人会本部長となり、京都女子専門学校(京都女子大の前身)創設に携わる。震災遺児たちの施設「六華園」も東京に設けた。 「ゆふがすみ西の山の端つつむ頃ひとりの吾は悲しかりけり」 1920(大正9)年6月、この歌に始まる九條武子の初めての歌集「金鈴」は、反響を呼んだ。 「わが胸にかへらぬ人かあまりにもはかなし声もまぼろしもなき」 歌集にはひとり居の寂しさと悲しみが切々と詠まれていた。 当時、武子は32歳。結婚直後に夫良致(よしむね)といっしょに英国へ渡ったものの、夫はそのまま英国に残り、別居生活は10年にも及んでいた。 しかし、ただのお嬢様ではなく、仏教婦人会の本部長として全国を巡って女子大の必要性を訴え、「金鈴」発表の2ヶ月前には、その尽力で京都女子専門学校開校にこぎつけた。 夫との同居に伴って東京へ移った後も、社会活動に力を注ぎ、関東大震災の遺児や被災女性のために施設「六華園」を設けた。 歌文集「無憂華(あそか)」の印税もすべて寄付して病院の創設を目指したが、過労に倒れ、1928年、40歳で早世する。 管理人:関連図書「九条武子 その生涯」はこちらから |
京都 |
2001/02/07 |
朝刊 | 27 |
面 | No .N142k010207m27 |
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九條武子/谷川美津枝 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 女子教育の先駆者、情熱の歌人/九條武子を北海道に追う/没後73年 後援した寺訪ね歩き/札幌の女性が足跡を本に |
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メモ : 浄土真宗本願寺派の大谷光瑞・第21代門主の妹で、京都女子専門学校(京都女子大の前身)設立に力を尽くした歌人・九條武子(1887-1928年)の北海道巡教の足跡を丹念に追った、「九條武子 北の無憂華(むゆうげ)」が2001年2月7日、武子を偲ぶ「如月忌(きさらぎき)」に合わせて共同文化社から出版される。(1885円) 著者は樺太からの引き上げ女性たちの記録も手がけた札幌のノンフィクションライター谷川美津枝さん(57)。 武子が講演した各地の寺を巡りるなどの取材で、仏教精神に基づく女子大設立に情熱を注ぎ、「宗教心と女子教育の欠ける国は必ず衰える」と訴えて各地で歓迎された武子の足跡をまとめた。 武子は結婚生活に恵まれず、悲しみ寂しさを詠んだ激情の歌人としても知られる。 十勝岳を見て詠んだ 「あきらめのため息ならず火の山は憤怒の息を大空にはく」 なども収録し、歌人としての一面も改めて紹介した。 管理人:関連図書「九条武子 無憂華」はこちらから |
京都 |
2001/01/16 |
朝刊 | 24 |
面 | No .N142k010116m24 |
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京都 |
女 |
甲斐和里子 |
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シリーズ・特集; 先人を訪ねて 98 | ||||||||||
見出し: 甲斐和里子/仏教精神に根ざし教育 |
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メモ : 【甲斐和里子】 1868(明治元)年、広島県神辺町の勝願寺にうまれる。同志社女学校卒業後、1899年に松田甚左衛門や夫駒蔵らと共に、仏教精神に根ざした顕道女学院を創設。1910年から27年まで教と高等女学校の教諭を努める。1962年死去。 明治初期の日本では、キリスト教のミッションスクールが各地で次々と創立されたが、仏教系の女子学校はほとんどなかった。各宗派の本山が多い京都でも同じ状況だった。 浄土真宗本願寺派の勧学だった足利義山和尚を父とする和里子は、仏教精神に根ざした女子校が必要と痛感した。教師資格を得るため1893(明治26)年、父の許しを得て、26歳で同志社女学校(現在の同志社女子大)に入学。 西本願寺で重要な地位にあった僧の子女が「ヤソの学校」へ入学したということで、批判や誤解が多かったという。また、学業成績が優秀で同志社の先生からキリスト教への改宗も勧められた。 しかし、和里子は敬虔な仏教徒として女学校の生活を過ごした。 学生は一週間に一回、ミサへの出席が必要だが、和里子は「賛美歌は歌ったが、最後はアーメンの代わりに小さな声で念仏を唱えた」という。 英語を初め、キリスト教文化や西欧の思想に触れ、広い視野を身に付けて29歳の時同志社女学校を出た後、仏教徒のために「顕道女学院」を始める。 この学校が西本願寺の支援を受け、1910(明治43)年に京都高等女学校へ発展する。 学園創始者とされた和里子だが、退職する1927年まで一人の女学校教師として学生の指導に当たった。 甲斐和里子の歌 「教え子をさとす言葉におのれまず 訓(さと)さるる身のはずかしさかな」 和里子の生涯に詳しい龍谷大学文学部籠谷真智子教授 「和里子先生は、小さい頃から父親の影響で念仏が血肉となって身に付いていた。それでも、同志社での3年間は、教育者としての生涯に大きな影響を与えた」 |
名前 | 年齢 | 掲載紙 | 掲載年月日 |
バーバラ・リー | 55 | 朝日 | 2001/09/16 |
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朝日 |
2001/09/16 |
朝刊 | 3 |
面 | No .N142a010916m3 |
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アメリカ/ワシントン |
下院議員 |
女 |
55 |
バーバラ・リー |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 武力決議 1票の「反対」/米下院/「だれか抑制必要」/民主党の女性議員 |
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メモ : 米下院で2001年9月14日、ブッシュ大統領に武力行使を認める決議が採択されたが、民主党の女性議員1人が反対票を投じて、420対1となり、大統領が求めた上下両院の満場一致は実現しなかった。 1941年の真珠湾攻撃直後に日本へ宣戦布告を議決した際も、上院は満場一致だったが、下院で1人の議員が反対した。 反対したのはカリフォルニア州選出のバーバラ・リー議員(55)。「だれかが抑制を利かせねばならない。決議の意味をじっくり考えるべきだ」と、武力行使が世界的に暴力の悪循環を生みかねないとの懸念を示した。 同議員は1998年4月、カリフォルニア州議会議員から連邦下院議員になった。1998年のイラク空爆にも反対。1999年のコソボへの部隊派遣では下院でただ1人決議に反対した。 ブッシュ政権が離脱を宣言した地球温暖化防止の京都議定書を支持。2001年7月には「平和省」の新設法案を提出した。 賛成票を投じた同州選出の別の民主党議員も「大統領、この権限の乱用を止めてほしい。あなたの決定は米国と世界の将来を左右するのだから」と慎重な対応を求めた。 |
名前 | 年齢 | 掲載紙 | 掲載年月日 |
西垣敬子 | 66 | 朝日 | 2001/09/28 |
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朝日 |
2001/09/28 |
刊 | 30 |
面 | No .N142a010928m30 |
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兵庫県/宝塚市 |
女 |
66 |
西垣敬子 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: アフガンにも『市民の暮らし』/女の子、私塾で学ぶ/女性支援続ける宝塚の西垣さん |
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メモ : 宝塚市の西垣敬子さんは、イスラム原理主義勢力「タリバーン」が実行支配するアフガニスタンの、旧ソ連との戦闘やその後の内戦で夫を失った女性や孤児を支援する活動を続けている。活動の様子を伝える写真展が2001年9月30日から10月7日まで、宝塚市の身障者療護施設「はんしん自立の家」で催される。 ● 隠れ学校 西垣さんは年に2〜3回、アフガニスタン東部のジャララバードという町を訪れている。日本で寄付を募り、夫が死ぬなどして収入を得られなくなった女性らの仕事作りにと、刺繍の糸を届ける活動などをしてきた。 タリバーンが支配するようになった1997年以降は、女性の就業・就学が禁じられたため、女性教師は仕事を、女の子は学ぶ場を失った。娘に教育を受けさせたい親たちは費用を出し合い自宅などに「元教師」を招いて寺子屋式の私塾を開いている。それを西垣さんは「隠れ学校」と呼び、教師の月給約2000円を援助している。ジャララバードだけで、10ヵ所余り、教師は22人、生徒は約1000人に及ぶ。 ● 神学生たち タリバーンは「神学生たち」の意味で宗教教育を受けた真面目な生年が多いという。旧政権の腐敗を批判・追放し、住民の支持を広げたタリバーンには、宗教上の習慣を監視する「宗教警察」という組織もある。 西垣敬子さん 「タリバーンは野蛮という見方があるが、私があった青年はみな、普通の人たちだった」 「雇われた地方出身者が多く、字が読めない人もいる。町の人は怖がりながらも、ちょっと見下している」 「テロは容認できない。でも、イスラム=過激派ではない。あいさつは翻訳すれば『あなたの上に平安を』。普通の人々は戦争を好んでいません。」 ● 見てみぬふり 「隠れ学校」を、タリバーンは見てみぬふりをしているという。2001年3月、西垣さんは裁判所から呼び出され、裁判官の自宅に連れて行かれた。「そこは、判事の妻が職員住宅の女児を集めて開いている隠れ学校だった。判事は『妻の給料も支援してほしい』と。笑ってしまった」 テレビ・ラジオは没収され、音楽もだめ、と禁止づくめ。だが、女性たちは隠れて友人の家などに集い、歌い、踊りを楽しむ。外出の時は「ブルか」という目の部分だけを開いた衣装をかぶるが、素顔を見られるわけではないのにきれいに化粧する、という。 女性たちは夫以外の男性の前では、素顔を見せられない。結婚相手も親や親戚が決める例が多い。 若い女性は恋愛や結婚をどう考えているのか。参加の女性医師や看護婦らの宿直室に好意で泊めてもらっている西垣さんは、彼女らから「相手が嫌いなら断ることもできる。名前がわかれば男の顔をチェックする。男の方は女の姿や顔を見ることはできないけれど…」と聞いた。 2001年10月下旬にも現地に再び出かけ、「隠れ学校」で使う教科書代や教師の半年分の給与など約40万円を届ける予定だった。情勢を見極め好転すれば予定通りに出かけるつもりだ。 |
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管理人:下記の『大阪読売』のシリーズ「阪神人物模様」のオンライン記事もご覧ください 宝塚アフガン友好協 西垣 敬子さん 内戦の弱者支援し6年 次のヒューライツ大阪 財団法人アジア・太平洋人権情報センターのニュースレターもどうぞ news letter アジア・太平洋の窓 No.28 1999.11アフガニスタンの女性とイスラム |