「宝塚・アフガニスタン友好協会」代表 西垣 敬子さん(64) |
2000/08/07 | ◆内戦の弱者支援し6年
七月末、三か月ぶりに訪れたアフガニスタンの首都カブール。戦闘のつめ跡はそこかしこに生々しく残っている。通りの両わきには、破壊し尽くされた建物が無残な姿をさらす。わずか三十五キロほど北は戦場。 「泊まっているホテルのロビーのソファには、前線から戻った兵士が寝転んでいるんですよ」 内戦が続いて約二十年。ちょうど十回目の渡航だった。 「この国は戦闘が生活の間近にあるんです」
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「戦争で傷ついたアフガニスタンの女性や子どもたちを支援したい」と話す西垣さん | 戦争で夫を亡くした女性や子どもたちを支援しようと、宝塚・アフガニスタン友好協会を設立したのは一九九四年一月。その前の年の夏、東京で開かれていた、アフガニスタンの内戦の様子を撮影した写真展を見たのがきっかけだった。地雷で足を失った兵士に、銃を持つ若者たち。会場に並んだ約百五十枚の写真は、それまでどのメディアも伝えてこなかった迫力で、戦争の愚かさと悲惨さを訴えていた。 「この写真展を、宝塚で開かせてほしい」 気が付いたら、その場で主催者のアフガニスタン大使館の職員に写真の貸し出しを頼み込んでいた。一人で準備に奔走した。協会設立から三か月後の四月、協会の活動の第一弾となる写真展を宝塚市内で開いた。 「考えるよりも先に体が動くだけ。『いらち』なんですよね」 初めてアフガニスタンを訪れたのは、協会を設立した年の十一月。同国東部の街ジャララバードの難民キャンプで赤ちゃんが飢え死にしかけているという情報で、「赤ん坊にミルクを」と呼びかけ、ようやく集めた四十万円を持って現地に飛んだ。しかし、難民キャンプには赤ちゃんの姿はほとんどなく、あったのは無数に並んだ墓標だった。暑さのせいもあって、一日に四十人近い赤ちゃんが死んだと聞き、悔しさに体が震えた。 それから年一回のジャララバード通いが始まった。空路でパキスタンまで行き、ビザを取得して陸路で国境を越える。日本で集めた現金を持って現地へ入り、支援に必要な物資はすべて現地で調達する。これまでにミシンや文具などを贈った。 「輸送費や関税がかかることを思うと、その方が経済的なんです」 現地滞在中は、女性たちが一人でも生きていける技術を身につけることができるよう、刺しゅうや裁縫の教室を開き、自立を手助けする活動も行っている。 「イスラム社会は、女性の地位が低い男社会。女性は、男性のいる場所へは出られないくらいなんですから。そこで女性が一人で生きていくのは並大抵のことではないんですよね」 九八年からは年二回に渡航を増やした。「女性や子どもたちを支援する」という姿勢は一貫して変わらない。 現在、協会の会員は、近畿一円に住む会社員や主婦ら約二十人。年に一、二回のペースで写真展を開く。その場で、支援のための寄付を募る。 今年四月、訪れたカブール市内で右足をロケット弾で失った十二歳の少女に出会った。赤十字国際委員会の協力で戦禍による義足の支援活動にも乗り出した。 今、カブールを制圧しているイスラム原理主義勢力のタリバンは、女性の就学や就業を事実上、禁じている。支援の拠点にしているジャララバードでは、職を解かれた女性教師たちが、「隠れ学校」と称して、民家の庭先で小さな女の子たちに勉強を教えている。そんな中で女性の支援活動は決して容易ではない。 それでも、七月に訪れたカブールでは、これまでとは違った空気を感じた。大学へ行けば学生たちがキャンパスを行き交い、街では市民でにぎわう市場を見ることができた。カブール市内では戦闘で壊れたまま放置されていた道路の補修工事が始まっていた。 「ひょっとすると平和が近いのかもしれません」 何気ない光景に、わずかな光明を感じずにはいられない。帰国後、こんな短歌を詠んだ。 〈戦場は三十五キロ北にあり カブール大学静かなる午後〉 次の渡航は、秋ごろになる予定だという。
大学を卒業後は、しばらく「普通のおばさん」だったという。しかし、一九八〇年、四十四歳で神戸大文学部の学士入学試験に見事合格してからの行動力には目を見張る。専攻はかねてから興味があった仏教美術。「寝る間もないほど勉強に追われた」という毎日を乗り越えて三年かかって卒業。さらに、八七年から二年間は、若いころから好きだったフランス映画で覚えたフランス語を生かして大阪市内のフランス総領事館に勤務。ビザの発給事務を担当。九〇年には、英語を身につけるためにイギリスに半年間、留学した。 「信念の人」とでも言うべきか。一度決めたことには、とりあえず突き進んでいく。原動力は「やってみないとわからない」という思い。静かな語り口の中に凛(りん)とした強さを感じた。
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