女子総合学園におけるジェンダー及びセクシュアリティの課題
性の視点で深める「羅生門」や「走れメロス」の読解
****中学・高等学校教諭 成田文広
はじめに
1999年度の本校研究紀要43号に、女子校におけるセクシュアル・マイノリティの問題を提起した小論を掲載して以来、女子学園の教育活動において性をどう位置付けるべきか、様々に考察してきた。昨年度は高3国語科特別講座「性と表現」の概略とその成果を研究紀要48号に報告した。その流れの一つとして、本稿では現代文の教材を性の視点で読み深める可能性を追求した2004年度の取り組みを報告する。
一般に、セクシュアルな要素を動物性と結び付けて論じがちであり、教室に「性」を持ち込むことについて慎重かつ消極的な姿勢がある。またセクシュアル・ハラスメントに対する過剰な、あるいは歪んだ反応によって、セクシュアルな表現や題材が含まれる教材を扱うことにためらいを感じる教師や、いまだ性をいかがわしく危険な要素としてのみとらえ、思春期の女生徒の目に触れさせること自体を忌避する教師もいる。2005年3月4日、参議院予算委員会で自民党の山谷えり子議員が取り上げた性教育教材に対して、小泉首相は「性教育は我々の年代では教えてもらった事はないが、知らないうちに自然に一通りの事は覚える。ここまで教える必要があるのか」と批判し、中山文部科学大臣も「行きすぎた性教育は子供のためにも社会のためにもならない」と答弁した。こうしたやりとりは、それを代表するものの一つであろう。
しかし、そうした論者もジェンダーが極めて文化的な『遺産』であり、セクシュアリティが生殖とは直接結びつかない人間行動や心理において多様な役割を担っていることを知っている。「性」は「公」と「私」それぞれの核をなすものであるからこそ、時々の施政・支配者は、公的な性であるジェンダーを維持しようとし、私的な性であるセクシュアリティを抑圧しようとしてきたのであろう。ゆえに、真摯に人間性の何たるかを追究し、人間を描く文芸作品の深い読みに到達しようとするならば、作中の性的な要素を回避するのではない。むしろ性が前面に現われていない作品においても、そこに潜む性的な要素を掘り起こすべきであり、そこに新たな読みの可能性が開かれるのである。
それはフェミニズムやウィメンズ・スタディ(女性学)の成果を生かす試みでもある。しかし、上半身で観念的なジェンダー批判を振りかざすことに終始し、下半身に官能的なセクシュアリティへの陶酔を閉じ込めている限り、豊かな人間性と巡り合う事はできない。成熟したフェミニズムは女性差別を糾弾し男女平等を叫ぶステレオタイプな女性闘士の武器ではない。それはすべての市民にとって、男性原理で動いてきた社会の矛盾や改革の切り口を探る有益な道具である。そして他方の性の視点から過去と現在を照射することにより新たな世界観を手に入れるダイナミックな装置である。その装置を仕込んだ授業の報告でもある本稿で、その可能性を示すことができれば幸いである。
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T授業対象及び時間数等
担当クラスは京都女子高校1年生T類6クラス252名である。高1現代文の単位数は各クラス週2時間。年間授業時数は各クラス約50時間。使用教科書は筑摩書房の『精選国語総合現代文編』である。なお、私の担当授業総単位数は週16時間で、高校1年現代文週12時間のほか、高校2年選択講座「発展現代文」週2単位(表現と問題演習)と、中学2年土曜講座「プロジェクトP」週2単位(手作り針穴写真機による針穴写真の撮影・現像と詩の創作)を担当した。
本稿では高1総合国語の現代文分野における取り組みの一部を紹介するが、他学年の講座においても、性の視点を持ち込む事を意識した。高2「発展現代文」では2学期後半から3学期のテーマを「制服」とし、鹿島茂の『セーラー服とエッフェル塔』(文藝春秋)、岸田秀の『性的唯幻論序説』(文春新書)、鷲田清一の『ちぐはぐな身体』(ちくま文庫)などの文章の一部を読み、「女子高生の制服のスカート丈はどうあるべきか」をテーマに小論文を作成した。また、中2「Project P」では、3学期に「女らしさ」をテーマに制作した作品をもとに「冬のソネット」と名付けた作品展を催した。
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U 文芸作品中心の教材構成
現代文の教材は詩や小説や随筆などの文芸作品、古今東西の自然・社会・文化・芸術に関する評論、時事問題を扱う新聞や雑誌の記事など多様である。それを万遍なく扱うには相応の時間が必要だが、本校の高1では年間50時間程度しかない。
大学入試では文芸作品、特に韻文が素材になることは少なく、出題は評論文が中心である。また、推薦入試や国公立の二次試験で課せられる小論文の多くは、評論あるいはレポートの読解との組み合わせとなっている。少ない授業時間で入試対策も考えた授業をしようとすると、いきおい評論重視になる。また「文芸作品の読解はとかく主観に陥りやすく、教師が自分の読みを押し付けて自己満足で終るか、生徒の自由な読みにまかせて無駄に時間をつぶすのがオチだ」といった批判も聞かれ、実際に授業で扱われる教材に占める小説や詩の割合は、教科書の配当以上に少なくなりかねず、戯曲などは見向きもされない状況がある。
しかし、小説や戯曲であればこそ楽しめる情景・心理描写や、詩や歌に際立った言葉の響きや象徴性を味わうことなくして、鋭い言語感覚や豊かな表現能力を育てることは困難である。 評論文の読解に必要な、接続詞や副詞や指示語に着目して文脈を追い、具体例から主題を抽出する地道な作業に耐えうるのは、「言葉と戯れる喜び」を知っている者であろう。文芸に親しむことで得た言葉への愛着やこだわりがあればこそ、抽象的で難解な評論文に食らいつく意欲が沸くのではないか。ただ、小説の筋を追うことだけを楽しんでいたり、自分の感覚にはまった言葉に浸っているだけでは、強靭で切れ味鋭い読解力は得られない。小説であれ詩であれ、作品の表現を丁寧に追いつつ、作品の全体像を結んでいく力を育てることが求められる。
そこで、2004年度高校1年の現代文では、下記のようにあえて文芸作品を中心に扱い、作品の表現にこだわった分析的な読みや論理的な解釈を追求した。
・ 1学期前半は芥川龍之介の小説『羅生門』
・ 1学期後半は太宰治の小説『走れメロス』と『桜桃』
・ 2学期前半は川上弘美の随筆『境目』
・ 2学期後半は中原中也の『月夜の浜辺』と萩原朔太郎の『遺伝』を中心とした詩と詩論
・ 3学期は安部公房の戯曲『棒になった男』
教科書に採録されている太宰の作品は『清貧譚』、安部公房の作品は小説『棒』であるが、他の教材との連続性を意識して差し替えた。上記の教材のほか、川上弘美の随筆の関連では、NHKで放映された性同一性障害を特集した番組(NHK福祉ネットワーク こころの相談室)のビデオを観て感想を述べる授業を組んだ。また詩の授業では、図書館の詩集から各自が気に入った作品を取り上げて鑑賞文をつけて発表し、また近代詩の音楽性に意識した詩の創作を自由課題とし、作品を廊下に展示した。戯曲については、各自が作品のテーマにせまる問題提起を行ない、その問いに対する仮説と論証を1200字以内でまとめる取り組みも2回行なった。また、鷲田清一の評論については、教科書に収められている『身体、この遠きもの』に代えて、評論『ちぐはぐな身体』(ちくま文庫)を3学期の最終3時間で扱った。
なお、年間を通して各月1〜3冊の新書を読み、1000字以上1200字以内の 新書カード(要約と感想を兼ねたレポート)を提出する課題を継続し、小論文対策を視野に入れた読書と表現の習慣付けを意図した。また、語彙力強化のために『完全征服大学入試現代文キーワード500』(桐原書店)を持たせ、毎週1回の小テストを重ねた。
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V 「境界」をキーワードに、性の視点で読む
今年度は、年間を通して「性」の視点から文芸作品の読みを深める事をねらいとした。そして作品を読み解くキーワードを「境界」とし、その鍵を使って読み解きやすい教材構成を組んだ。また、文芸に限らず評論の読解や小論文などの表現においても、世界の構造である「時間」「空間」「人間」(授業では「三つのカン」と呼んでいる)を繰り返し意識させた。
作品それぞれにその良さや味わいにせまる切り口がある。それをあえて共通の切り口から読ませたのは、文芸作品を読み込む「型」を身に付けさせることを意図したためである。また、小・中学校時代に学んだ文芸作品の読みとは違った読みの切り口があることを実感できるようにするため、芥川龍之介の作品『羅生門』を導入とし、その読みの発展として中学校教材の代表格である太宰の『走れメロス』を『桜桃』と組み合わせて取り上げた。
以下、『羅生門』と『走れメロス』を中心に、性の視点で読みを深める授業の経過を報告する。また、授業のまとめとして教室で配布している教科通信『二〇〇四年度 現代文便り ベランダの風』のいくつかを参考資料として章末に転載した。因みに『ベランダの風』の原版はB5縦書き2段組を2枚張り合わせたB4版。タイトルは「窓際のもう一つ向う側から、新鮮な風を送ります」といった意味合いである。
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@芥川龍之介の『羅生門』
「ある日の暮れ方である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。」という『羅生門』の書き出しには、世界を構成する時間・空間・人間のすべてが書き込まれている。そして、その後に続くきりぎりす・夕やみ・夕冷えといった時間の描写は、この世界が夏から冬へ昼から夜へと向う、いわば生死の境界であることを示している。また、朱雀大路・門の上下・はしごの中段、楼の内外といった空間の描写は、羅生門が都の内外を分ける門としてだけではなく、生死を分ける場であり、もう一つの世界との境界である事が示されている。さらに、短いひげの中に赤くうみを持ったにきびを持ち、暇を出された下人は、少年から青年(子どもから大人の男)へと移り変わる途中であり、かつどこにも所属していない宙ぶらりんな存在として描かれている。
『羅生門』が境界世界の物語であることを意識させた上で、もう一つそこに重ねて意識させたのは門の住人である。下人が門のはしごを夜の底へと駆け下り、黒洞洞たる夜に消えていったことは、良心の死と引き換えに悪人としての生を得たことを示す。その死と再生の装置である羅生門の住人は屍骸であった。無造作に捨てられた屍骸は「かつて人間であった事が疑われるほど」人形のように転がり、永久におしのごとく黙っていた。屍骸は人間性を完全に喪失しつつある人間の存在を示している。その境界で下人を導いたのは、猿のような鴉のような蟇のようなと、非人間的な存在へと刻々に形容が変化する老婆(死に近い人)である。そして良心や正義を捨てた非人間的な存在として生きることを下人に決心させたのは、蛇を魚と偽って売る長い髪(女性美の象徴)を持つ女の屍骸であった。荒れ果て食うにも困り使用人も解雇されていく都で、老婆の作るかつらを買う人間がどんな人間であるかを想像することは難しい。しかし、羅生門が死と再生の装置であり、それを動かしているのが女であることに気付くならば、老婆が女の髪を抜きかつらを作るという行為は、永久に命と罪を産み出す女≠再生する行為としてとらえることができよう。
この教材の発展学習として、「下人のその後」を作文させて作品のテーマにせまらせる試みがある。しかし、虚無に消えていった下人の行方を追っても虚無以外の何ものも見えては来ない。だからこそ夜の底であり黒洞洞たる夜なのである。作者は、下人が去った後の楼上の老婆の描写を描き、わざわざ「下人の行方は、だれも知らない」と念押しした。そこに留意して読みを深めるならば、想像すべき「その後」は、下人の行方ではなく、再生装置としての羅生門と案内人の老婆のその後であろう。実際の授業でも、あたかも次に運ばれる新鮮な屍骸を待つ鴉のごとく、次の獲物を楼上で待つ老婆と、抜いても抜いても新たに生える女の屍骸の黒髪を想像させることは、この作品の「絶望的な死と再生」を感得させることに役立った。
また、この作品を支配する闇と対称的に描写されているのは、老婆がかざす松明の明かりである。そこに浮かび上がったのは、火の光を受けていっそう影を暗くする屍骸の「死」であり、火の光がぬらす頬の赤くうみを持ったにきびに象徴される「生」である。漆黒の死と赤いにきびの生のコントラスト、男と男をだます若い女、そして若い男を誘い入れる年老いた女とのコントラストに視線を向ける。それにより、この作品の虚無や絶望に沈んだ冷たく暗い「人間性の死の世界」だけではなく、おどろおどろしくも怪しげで艶めかしもいかがわしい、「人間的な生の世界」が透けて見えてくるのである。
男である下人を主人公としてみる事をあたりまえとせず、そこに描かれた女に注目することによって、作品の読みを味わい深く彩り豊かにすることができ、文芸作品に秘められた大きな可能性を知ることができたのではなかろうか。
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A 太宰治の『走れメロス』と『桜桃』
太宰治の作品は、長年中・高校の多くの教科書に採られて来た。中でも『走れメロス』は、中学校国語教材の定番とも言える作品である。しかし、「走れメロス」を太宰らしさが十二分に備わった作品として評価し、太宰らしさを満喫するために選んでいるとは考えにくい。むしろ虚無や無頼といった、太宰の青少年の健全な発達にはふさわしからぬ反社会的かつ反道徳的な作品群の中にあって、健全かつ感動的な作品として「走れメロス」が選定されてきたのではなかろうか。ゆえに、授業でもセリヌンティウスのもとに向って走るメロスの講談調で躍動的な描写を朗読させたり、様々な障害や葛藤を乗り越え邪悪に勝ち愛と真実を証明した「勇者の物語」、あるいは愛と友情を称える「人間性の勝利の物語」としてまとめてしまいがちである。実際、中学校の授業でこの作品を読んだり、個人で作品に触れた生徒の大半は、そうした物語としてこの作品を理解している。そしてそうした読みに終始した生徒の多くは、「『走れメロス』はくだらない作品だ」と感想を述べるのである。
しかし、『走れメロス』の表現を丹念に拾って読み解くと、いくつも疑問が浮かんでくる。そして世間で求められている「健全さ」とは裏腹の太宰らしさが浮かび上がってくる。また、この舞台が生まれ故郷の村から死が待つ町へと向う「境界の物語」としてとらえるならば、その境界の意味を考えるところに、この作品の含まれる太宰らしさを見つける可能性がある。それを浮かび上がらせる触媒として太宰最晩年の作品『桜桃』を使ったことが、今回のアプローチの特徴である。
授業では、まず『走れメロス』の描写に使われている色彩を抜き出させた。そして登場人物がストーリーの展開上どのような役割を果たしているかに注目させた。そこで最初に指摘されたのが「赤」の多用である。この鮮烈な色彩をもつ「血と心臓」「夕陽」「緋のマント」はいずれも何かの象徴として考えることにした。その他いくつも上がってきた疑問の内、主要なものは次の3点である。
・ メロスは妹の結婚式の準備のためにシラクスの町に買い物に行ったはずなのに、なぜ妹の婚約者はすぐに結婚式を挙げることをためらったのか。
・ メロスが走り切れたのは「わけのわからぬ大きな力」に引きずられた結果なのだから、これは人間の勝利ではなく、神の勝利の物語なのではないか。
・ 最後の場面で一人の少女が突然登場し、裸のメロスに赤いマントを渡すが、真夏でしかもメロスが裸で帰って来ることを知らない少女が、なぜ赤いマントを持っていたのか。
こうした疑問を通して、次のような仮説を立てた。それは、このドラマの出発点に妹の結婚があり、途中で弱さを露呈して投げやりになるメロスを繰り返し動かすのは大きな力であり、その結末に裸の男を待ち受ける赤いマントを持った少女がいる。『走れメロス』は非情な王と友情で結ばれたメロスとセリヌンティウスという「三人の男の物語」のように扱われがちだが、「人間を超えた大きな力と女」がドラマを支えていることに注目することでこそ、この作品の太宰らしさが見えてくるのではないかということである。加えて、王が最初に殺したのは妹の婿であり、その次が息子、妹、妹の子、妻の順だったことに、メロスが闘う人間不信が何なのかを考える切り口を見つけることにした。
また、この作品の主要な場面は、メロスが「たった一人の家族であった妹が結婚する村」から「無二の親友が自分を信じて待つ町」へと向う途中、すなわち境界の世界である事を押え、それが愛と信実を実現する上りの通路なのか、生から死へと向う下りの通路なのかを考えさせた。
次に、こうした疑問や仮説の論証を保留したまま『桜桃』を読ませた。メロスが愛と信頼と正義を実現するために駆けぬけたのは太陽輝く野山だった。『桜桃』の舞台は、それとおよそ対極にある、梅雨時の蒸し暑い日本の狭い居間であり、そこでは家族がひしめき、哀しみに耐える女と憂鬱にさいなまれ自殺を思いつつ虚勢を張る男がいた。その最後の場面は、家を出た男が飲み屋の女に出された桜桃をまずそうに食いつつ「子供より親が大事」とつぶやく場面である。授業では、この付け足しのような場面に出てくる「珊瑚の首飾」のような桜桃の鮮やかでみずみずしい赤色が何を象徴しているのかという問いかけをした上で、『桜桃』を読ませた。そして、そこで得た理解や想像を手掛かりに、『走れメロス』の色彩の象徴性を読み解き、先に保留していた仮説の論証を行なわせた。
今回の読みのポイントは、作品の中心人物ではなく、その脇役にいた二人の女(妹と娘)に注目し、その女性の役割を象徴性の高い色彩によって読み解くことに置いた。その結果、『走るメロス』は一般に言われるような、「邪悪な王の人間不信に愛と正義と友情が勝利する輝かしい物語」ではなく、「運命に翻弄され女に絡めとられていく男の、苦しく切なく人間臭い物語」として読み直すことができた。それにより、安定期の太宰の一見太宰らしくない作品にもしっかりと潜んでいた、太宰の本質を掴み取る読みができた。
授業で取り上げた問題と仮説及び論証の概要は、『二〇〇四年度現代文便り ベランダの風 その三 一学期後半の学習のまとめプリント その二』(2004年6月28日発行)を参照されたい。
※ 参考資料 @
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B 川上弘美の『境目』
川上弘美の随筆『境目』は、空間の境目(市と市の境)から人間の境目(人種)、時間の境目(季節)へと、世界を区切る境目を次々に思い起させながら、自他の境目に目を向けさせる小品である。そこには「みんな一緒がいいね。」と「わたしにとってわたしはいいものなんだもん。」とを対比することにより、アイデンティティを確立し自己肯定感を獲得することの爽快感が描かれている。
しかし、この世に満ちた差別と暴力と不平等を実感できない人間は、「わたしはわたしだもん」と言い切ることの爽快さもまた実感できないだろう。自分がまとっている既成の常識や流行を自分らしさ≠ニ錯覚している人間は、自らそれを確立し他者のそれを受容することが、苦悩を伴う厳しい行為であることを知らず、川上の言葉をファッションのように聞き流すことしかできないだろう。
そこで、川上の言葉のリアリティを実感させる補助教材として「NHK福祉ネットワーク こころの相談室」で2週連続放送された番組、『性同一性障害 戸籍の性を変えたい〜「特例法」が広げる波紋〜』(2004年9月7日放送)と『性同一性障害〜家族はどう受け止めたか〜』(2004年9月14日放送)をビデオに撮り、その後編を授業で鑑賞させ、感想を提出させた。一編のみとしたのは授業時間の制約によるものであり、後編を選択したのは、番組後半に登場する当事者が本校所在地に近い京都の公立高校の教員であり、生徒たちの生活感覚に近い部分が多いと判断したことによる。
テレビの取材を受けた土肥いつきさん(旧名謙一郎42歳)は、差別に悩む在日韓国朝鮮人や同和地区の生徒にきめ細かな支援の手を差し伸べる高校教員だった。職場の同僚で事務員だった淳子さんは、その姿に好感を抱いて結婚する。その二人に子どもが産まれた後の結婚8年目、いつきさんは自分が性同一性障害(GID)であることを確信し、淳子さんに「自分は男性でない」とカムアウトする。淳子さんはその言葉に当惑し、深い喪失感を抱き、夫を拒絶する。しかし、いつきさんとの間にもうけた子供の姿や、いつきさんの教師としての仕事ぶりを見つめるうちに、「性別は変わっても人格は変わらない」ことを確信し、ついにはいつきさんが女性の体を手に入れるためのホルモン療法を受け入れる。
この番組に対する生徒の感想の特徴は、GID当事者であるいつきさんへの同情や批判ではなく、妻の淳子さんへの讃嘆あるいは畏敬が多くを占めたことである。生徒達はこの番組を通して自分らしく生きようとすることの大変さと、自分らしく生きようとする身近な人を一人の人間として受容していくことの難しさを実感したようである。それは、この番組が川上弘美の言葉を反芻するよい教材となったことを示していよう。
川上弘美はボーダーレス化の進む現代社会で自己同一性の枠としての境界を保ち続ける勇気を求めている。しかし、そうあることの困難を前に、個の掛け替えのなさを放棄しすることに疑問を持たない老若男女がいる。それは、村落共同体の一部として慣習と血縁に溶け込みながら生涯をそこで閉じる土着の住民とは違う。それは不定形、あるいは空虚な自己を手軽な仮面∞とりあえずの制服∞仕方なしの着ぐるみ≠ノ隠しつつ、無機質な群集に紛れ込む都市の住人である。そこで問われるアイデンティティや人間性の疎外については、それを50年前に「棒」として描いた安部公房の作品『棒』と、1990年代の制服の意味を論じた鷲田清一の評論『ちぐはぐな身体』で考え直す機会を持つことにした。その概略に付いては「D 安部公房の『棒になった男』」で報告する。
なお、下記のNHKのホームページには、今回取り上げた番組の概要が紹介されている。また土肥いつきさんのホームページでは、その後も含めた経過が紹介されている。関心をお持ちの方は下記のアドレスで参照されたい。
NHK福祉ネットワーク こころの相談室
http://www.nhk.or.jp/fnet/arch/tue/40907.html
http://www.nhk.or.jp/fnet/arch/tue/40914.html
いつきのページ
http://members.tripod.co.jp/ituki_k/index_2.html
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C 中原中也の『月夜の浜辺』
2学期後半の詩の授業でも「境界」を意識しつつ作品の鑑賞と解釈を進めることにした。年度が始まって早々の4月11日に教科書に掲載されている小説『指』の作者鷺沢萌が自殺した。そこで、芥川と太宰と合わせて、自殺した三人の作風の共通性などについて考察する課題を与えてもよいかと考えた。しかし、授業時間の制約で鷺沢萌を扱うことができずに終った。そこで、2学期の詩の授業では、生死の境界に立つ者の自己の存在の不確かさに対する不安や怯え、あるいは死がもたらす喪失感に焦点を当てた。また同時に、口語自由詩の音楽性に注目することを重視して取り上げる作品を選択した。なお、中也の作品鑑賞に際しては、『ことばの花束 中原中也のこころ』(佼成出版社)から「体に中也のりズムが沁みこんでいる」(柴門ふみ)などを抜粋し、鑑賞の手引きとした。
教科書には中原中也と萩原朔太郎の詩と共に、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』と石垣りんの『崖』も載せられていたが、この二作品は省いた。ただし、谷川俊太郎については武満徹が懇請合唱曲にした『死んだ男の残したものは』の音楽鑑賞をした。また、茨木のり子の『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)に掲載されていた石垣りんの『幻の花』についての鑑賞文を、一月に実施した実力テストの素材として取り上げた。そこでは『幻の花』とともに、永瀬清子の『悲しめる友よ』の鑑賞文も取り上げ、女性としての生き方について考える材料を示した。
この詩の授業の概要については、『二〇〇四年度現代文便り ベランダの風 その九の@ 詩の学習のまとめ』(2004年12月6日発行)および『二〇〇四年度現代文便り ベランダの風 その九のA W萩原朔太郎の詩のオノマトペ』(2004年12月6日発行)を参照されたい。
※ 参考資料 A
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D 安部公房の『棒になった男』
多くの教科書で取り上げられている安部公房の作品は小説『棒』か『赤い繭』、あるいは評論である。しかし、安部公房の業績に占める戯曲の割合は極めて重い。そこで今年度は小説『棒』に代えて戯曲『棒になった男』を扱うことにした。それはまた、今年度のキーワードである「境界」と「性の視点を生かして読みを深める」試みにとって、より有効な教材だと考えたからである。
この小説と戯曲との大きな違いは登場人物の構成である。登場人物が男のみだった小説に対し、戯曲では男女のペアが基本となっている。その変更によって生まれたセクシュアルな、あるいは一見前後の脈絡がないナンセンスで不可解な台詞や行動によって、作品のテーマがより鮮明に浮かび上がっている。とかく観念的な説明で終りがちな「実在の不安」が、親密であるはずの男女関係や、肉体を介在するセクシュアルな行動を通して、具体的に示されているのである。人間の肉体表現を前提とした戯曲と言うジャンルの性質が、それをより容易にしたともいえよう。
授業では、まず各6〜7名の班ごとに、ト書きの語りも含めて役を振り、読み合わせをした。その上で、班ごとに作品に関わる「問題」を作り、それに対する仮説と論証を各自1200字以内で文章化した。それを班ごとに回し読みし、比較的説得力のある論証を一つ選び、クラス全員の前で発表した。それに対して教師が問題を指摘し、それをめぐるやり取りをしつつ、二回目の問題提起・仮説・論証を前回と同様にまとめた。
各クラスで取り上げられた問題は様々だったが、焦点となったのは「棒が象徴するものは何か」、あるいは「棒とゴムホースとの違いは何か」といった問題だった。そのいずれを解くにせよ、先に挙げた不可解な男女間の行為や台詞に注目することが有効だった。肉体を介在して結び付いた最も親密なはずの人間関係の間にすら存在する断絶。社会の渦に巻き込まれながら孤立して、人間性を疎外された都市の住人の絶望的な状況を、そこから読み解くことが可能になったのである。
その授業の概要は、『二〇〇四年度現代文便り ベランダの風 その十三 安部公房作戯曲『棒になった男』まとめプリント A』(2005年3月7日発行)を参照されたい。
※ 参考資料 B
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