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参考資料 B
二〇〇四年度 現代文便り ベランダの風 その十三 二〇〇五年三月七日
安部公房作
戯曲『棒になった男』まとめプリント A
十二枚目の『ベランダの風』では、戯曲『棒になった男』を読み解く五つの問題と、小説『棒』に関する四つの問いを示しました。今回は、試験直前のおさらいとして、それらを考える視点を整理します。各クラスで発表された問題が違うので、当然授業中のやり取りの中心になった事柄も違います。そこで、これを作品の理解を深める手引きとしてください。
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一、 最初のト書きで示された境目の宙ぶらりんに注意する
この戯曲の初めのト書きには、次のような「時間」「空間」「人間」が指定されていた。
・ むし暑い、ある六月の日曜日 (時間)
・ ターミナル・デパートを背景にした大通り。歩道の縁石 (空間)
・ 三メートルほどの距離をおき、周囲とは全く隔絶した、閉ざされた表情で、ぼんやり正面を向いて掛けている、フーテン風の若い男女 (人間)
このト書きから、ドラマの舞台が梅雨時の蒸し暑さに似た、見知らぬ他人があふれて行き交う不快指数の高い世界であることがわかる。しかもそこに登場する人物は、反社会的な人間の象徴であるかのようなフーテンの若者であることから、ドラマのテーマが現代社会への批判であることを予感させる。しかし、このト書きをもう少し注意深く読むと、このドラマが社会に対する単純な批判ではなく、人間の存在の仕方に問題を投げ掛ける作品であることに気付くだろう。
まず、日曜日。都市生活者の大半を占めるサラリーマンとその家族にとって、日曜日は仕事や学校から解放された休日であり、公的≠ネ制約から離れ、自らの趣味や興味に従って主体的に過ごすことのできる私的≠ネ日のはずである。しかし、誰かの命令に従順に従って生きている人間にとって、日曜日は誰からも指示を受けることがなく、自分が存在する目的も意味も失った、宙ぶらりんな休止状態に置かれる日である。それは自由を得た解放の日ではなく、自分の行動に対して自分で責任を持たねばならない苦悩の日となる。
つぎは、棒(になった男)が落ちてくる場所。そこは単なる雑踏ではなくターミナル・デパートの前である。駅はどこか違う場所への通過点である。駅が目的地である人は少なく、そこにある雑踏はどこかからやって来ては去っていく人の群れである。しかも、その駅はステーション(発着場)ではなくターミナル(終着駅)なのである。棒が落ちたターミナル・デパートは雑多な人と物であふれた人間世界の終着駅であり、その先にあるのは「死」、あるいは絶望でしかないことが暗示されている。男の体は「宙に浮いて」屋上の手すりを越え、一本の棒となって歩道の端に当たり、縁石の外のくぼみに横たわるのである。
三つめは、若いフーテン風の男女の座り方。二人は歩道の「縁石」に「三メートル離れ」、「ぼんやり正面を向いて」腰掛けている。若いカップルであり、なおかつフーテン風の反社会的な男女であれば、人の目を気にすることなく寄り添い抱き合っていてもおかしくない。しかし、二人はまるで他人のように離れて座り、しかも相手への関心がないかのように正面を見ている。他人に対して無関心である彼らの視線は自分の前途にも焦点が合っておらず、自分自身の生きる目標や存在の意味を見失っているかのようである。車道でも歩道でもないその境界線上にぼんやり腰を置く若者は、どこに所属することもなく、抵抗することもない、宙ぶらりんで主体性に欠けた存在として登場する。
最初のト書きに示された舞台は、親密なはずの人間関係にも断絶が潜む、どこにも属さぬ宙ぶらりんな時間と空間である。そこで、閉塞しつつ孤立して自分の存在感を失った宙ぶらりんな人間のドラマが展開するのである。
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二、 小説と戯曲の違いや細部に注意する
小説『棒』は一九五五年に発表され、戯曲『棒になった男』は一九六九年に発表されている。そこには十四年の隔たりがあり、当然作品の背景となる「現代社会」にも変化がある。しかし、安部公房がえぐろうとした社会や人間の問題が、それからさらに三十年以上を経た現在にも通じる普遍性を持っているからこそ、このシュールな作品のリアリティを感じることができるのだろう。そのことを押さえた上で、まず作品の違い(変化)のいくつかに着目して、『棒になった男』の理解を深める手掛かりとしたい。
二つの作品のみかけ上の最も大きな違いは、登場人物の違いである。小説では「先生」と「学生」が棒を断罪するが、戯曲ではその役が「地獄の男女」に代えられている。そして、その地獄の男女と絡む「フーテンの男女」が最初に登場する。親子について言えば、小説では「二人の子供」の守りをしていた男が、「ただぼんやりしていただけ」なのに、上の子どもの怒ったような声に呼ばれ、「思わず、その声から逃れるように」身を乗り出すと「ふわりと体が宙に浮き」、墜落しつつ棒になった。そして棒となった後の男は、最後まで無言のままである。一方、戯曲では「一人の息子」が望遠鏡のぞきに男を誘おうと呼んだ「とたんにおれの体は宙に浮」き、逃げるつもりはなかったのにそれから逃げて飛び降り棒になった。そして戯曲では、棒になった後も男の独白が随所に差し挟まれる。小説ではすべて男性だった登場人物を、戯曲では棒になった男とその息子のペア以外男女のペアに変えたことで、作品がどう変わったのか検証してみよう。
小説では、先生の鼻ひげが風にぷるぷるふるえ、それが付けひげであることがばれる場面がある。付けひげは、彼らが人間の姿に変装している異世界の住人であることを示しているのかもしれない。あるいは、一般に権威の象徴であるひげをにせ物にしたことで、権威やそれを支える世間の評価のいかがわしさを風刺しているのかもしれない。しかも、ひげそのものは男性性の象徴でもある。このような小説のディテールに注ぐ視線を戯曲に向けてみると、戯曲の理解が深まってくる。どうでもよさそうな描写をわざわざ差し込んだところにこそ、作者の意図が強く働いていると考えられる。そこで登場人物の描かれ方に注意して、読みを深めていこう。
その一つ目は「三メートル」離れて座っていたフーテン男女の描写である。フーテン女は「キッスして」と男に求めるが、男はそれを拒否する。次に女が背中を掻くことを求めると、男は拾った棒を襟首から差し込んでしぶしぶ掻くが、すぐに止めてしまい、自分の垢にまみれた汚い背中を女に掻かせる。そこで女は男を「エゴイスト」と呼ぶ。このキスを求めたり背中を掻く行為は唐突で、若者の非常識さや女の非論理性を示しているだけの場面のようにも見える。しかし、戯曲の最後で「背中を掻く」ことが棒の形に閉じ込められた男の「心配」として繰り返されることから、この行為は、作品の深部に迫る描写として押さえるべきである。フーテン男は他者と密着して一体的かつ相互的な快楽を得るキスを拒否し、手で背中を掻くという直接的な接触さえ回避し、他者との関係性を否定して自らの快楽だけに閉じこもる存在として描かれているのである。
二つ目は、地獄の男が本部の同僚に「(突然調子を変え)悪いけど、女房のやつが来たら、ロッカーの鍵、あずかるのを忘れたって言ってくれないかなあ」と頼む場面である。社会を構成する最小単位である家族の中心をなす夫婦関係においてすら、隠された秘密が存在し、断絶が横たわっている。しかも、それが地獄という異世界の夫婦関係として描かれることで、信頼で結ばれた他者との親密な関係など、どんな世界にも存在しない幻想であることが示されている。
小説の「先生と学生」といった師弟関係や「ふたごのように似通った」同輩という登場人物の設定が、戯曲では恋人や夫婦といった男女の関係に置き換えられたことにより、一人の男の孤独や絶望以上に、すべての人間の存在の空虚さが浮かび上がってくるのである。フーテン男をエゴイストと呼ぶ女は、地獄の男に「(物知り顔に)いま、断絶の時代なのよ。私たち、疎外されてんの」と言い、男の「(後につづきながら、無邪気に微笑み、手をふって)」「断絶の時代なのよ(言い捨てて退場)」する。一見すると、ここで女が繰り返す断絶とは大人と若者との世代の断絶であり、疎外とは彼らが社会からふるい落とされていることを示しているかのように読める。しかし、そのフーテン達は、棒になった男が吸い込まれた「都会の滝壷」、「怪物が吠えたてているような、都会の現実音が、ゆっくりとせり上がってくる」雑踏の「渦」の中にいるのである。そこから「断絶」とは、あらゆる他者との断絶であり、「疎外」は人間性の疎外であると考えられよう。
さらに安部公房が男女を微妙に描き分けていることにも気を配りたい。「そろそろ自分に、うんざりして」いて、「(いまいましげに)なんだか、こいつ、おれに似すぎていやがる」と自分が棒に似ていることに苛立ちを覚えるフーテン男と、「一度だって、満足だったことなんぞありゃしないぞ」と独白する棒とは重なる。地獄の男は妻の干渉も研修生の感傷も否定し、ついには自分すらも「はたして、実在しているものなのか」「人間が死に際に見る、夢にすぎない」と、自分の存在の不確かさを語る。一方、フーテン女は肉体を通じて他者との関係をつなごうとし、地獄の男が示した「三百円」に「とたんに、いきいきと」反応する生活感を持つ。そうした姿は、地獄の男の秘密を暴こうとする男の妻の姿とも重なる。地獄の女は、棒になった男と息子に同情し、棒の誠実さを「わびしすぎる」と感傷を抱く、感情的な存在として描かれている。
このような肉体と感情によりどころを求める女たちと観念的な男たちとの対比によって、存在の不確かさに怯える男たちの姿がいっそう明瞭に浮かび上がってくるのである。安部公房が『砂の女』を著しても『棒になった女』を描かなかったところに、安部公房の女性観を見てとる事ができ、またそれは安部公房の他の作品を読み深める重要な手がかりにもなるかもしれない。
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三、棒とゴムボールがが象徴するもの
一見不必要にも見える不可解な場面と言えば、小説『棒』に登場する「先生」が、棒で地面にいたずら書きをする場面がある。その絵は「抽象的な意味のない図形だったが、そのうち、手足が生えて、怪物のかたちになった。つぎに、その絵を消しはじめた。消し終わって、立ち上がり、ずっと遠くを見るような表情で、つぶやくように」、棒が「裁かないことによって、裁かれる連中」であると語った。この場面の解釈の手掛かりの一つは、棒は「盲人を導く」のか「盲人は棒に導かれているわけではなく、棒を利用して、自分で自分を導く」のかというやり取りと、棒で先生が私をぶつこともできれば私が先生をぶつこともできるというやり取りである。
棒が盲人を導くのだとすれば、先生のいたずら書きは、先生が棒によって書かされた棒の心の表現となる。それは、「乱暴な扱いにも誠実に耐える単純な道具として存在する人間の内には、その表面的な姿とは似ても似つかぬ怪物のような苦悩や煩悶が閉じ込められている。しかし、棒としての存在から逃げ出そうとその内面をあらわにした途端、存在そのものが抹殺されてしまうのだ」ということかもしれない。そう考えれば、小説では描かれたいたずら書きの場面が戯曲では削られ、その代わりのように棒自身の独白が差し挟まれたことの説明もつく。
そうであれば、フーテン男が「こいつと、気が合っちゃったんだ」と棒の端を握って身構える仕種をし、「手当り次第、ぶちかましてまわったら、胸がすかっとする」と言った言葉も、棒の形に閉じ込められている人間の不満や破壊への欲求が、棒を持つ人間によって表現される危険性が暗示された言葉として読むことができる。棒を握ったフーテン男は、棒の抑圧された情念のメディアとなってしまうのである。だからこそ、地獄の男は「自滅だぞ、君、棒の何たるかを知らない君たちが、みだりにもてあそんだりしちゃ自殺行為だぞ」とフーテン男に警告を発したのだろう。
蛇足だが、このいたずら書きの場面は、夏目漱石の『こころ』で「先生」が「私」の前で杖を使って落書きをする場面を思い起させる。そこに何かの関連、あるいはパロディとしての遊びを読み取ることができれば面白い。
棒になった男は、誰の支配も受けない日曜日に終着駅にやってきて、「怪物」が吠え立てる都会の滝壷、雑踏の渦に「目もくらむ思いでじっと耐えていた」。そして遠い未来や未知の世界に目をやる「望遠鏡のぞき」に誘う息子の誘いから逃げて、現実の渦の中に落ち、永遠に棒の形に閉じ込められた。男は今の自分に満足していなかった。そしてそのまま社会の流れに身をまかせることを思い止まろうとしていた。しかし子供と一緒に未知の世界を見る事から逃げ、現実の渦に吸い込まれていったのだ。地獄の男に「満足していたからこそ、棒になった」と言われた棒は、「一度だって、満足した事なんぞありゃしない」と反論する。しかし棒は同時に「確実に拾ってもらえるものと言やあ、結局棒だけじゃないか!」と独白する。そこで地獄の男が客席をぐるりと指さして語った言葉は、「もっと違った棒にはなりたくても、棒以外の何かになりたいなどとは、一度も思った事のない、この罪なき人々……裁かれることもなければ、罰せられる気づかいもない、棒仲間」だった。棒になった男は、わずかに自分の主体性を取り戻す事ができた人生の瀬戸際で、結局棒のままでいることを選択したのだ。
六月のどんよりとした雲に被われて閉塞し、不快な空気が充満する街は、「うつむいて 渦をまき」、「都会の滝壷」となった。そこで父の姿を見失ったままさ迷うゴムボールの子供は、やがて父のように単純で有能で誠実な、手頃で上出来の棒になるのか、あるいはフーテン男のように軟弱で空虚で使い勝手の限られたゴムホースとなるのだろうか。
小説では子供は父の姿を捜し求めて雑踏の中に消えて行った。棒になった男には「父ちゃん、父ちゃん、父ちゃん……」という子供の叫び声が、自分の子供の声かどうかさえわからなかった。戯曲でもフーテン女は、子供が父を呼ぶ「おびえた、こごえたような声」など「聞こえるわけ、ないでしょ。この辺の騒音は、平均百二十フォンもあるんだって」と言っている。雑踏に棲むものたちの言葉にならないうめきや叫びや吠え声が、個人の存在などかき消してしまうのである。
しかし、戯曲の棒になった男は、「百万人の重さにふるえる、地鳴りを縫って、小さなゴムボールみたいにはずむ、あの子の足音」を聞き分けた。棒と同じく、ゴムボールには自らの判断のために世界を見る目も、思いや意見を声に出す口も、創造する手も、世界を自由に巡る足もない。しかし、弾力に富んだその存在は、いかなる形にも成長する可能性と、閉塞した現状から跳躍する力を秘めている。そこには、自らは絶望的な現実の前に倒れ伏し、虚無に飲み込まれかけながらも、次の世代に微かな希望を抱く作者の思いが透けて見えないだろうか。
今年度最後のベランダの風のおわりに
この一年間、現代文の授業で繰り返してきたことは、作品の表現にこだわり、「時間」「空間」「人間」を整理し、「境界」に注目することによって作品の読みを深めることでした。「枝葉ではなく幹に、肉付きではなく骨格に眼を向けよ」という人もいます。しかし、丸太のような幹や白々とした骸骨をみることが樹や人を見ることにはならないでしょう。
文学に親しみ、そこから何かを得ようとするならば、葉の繁り具合から、その木の枝ぶり根の張り具合まで想像し、唇に引いたルージュの色合いから、その人の願いや価値観を探り当てる目を養いましょう。それには、おおいに読書し、人と関わり議論することが大切です。あなたにとって、現代文の授業がそのきっかけになったならば幸いです。
一年間お付き合いくださって、どうもありがとうございました。
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