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参考資料 A
二〇〇四年度 現代文便り ベランダの風 その九の@ 二〇〇四年十二月六日
テスト直前 学期末バーゲンプリント 詩の学習のまとめ
今日十二月六日は「音の記念日」です。エジソンが蓄音機を発明した日で、人類初の録音はエジソン自身が歌った「メリーさんの羊」だったそうです
さて、二学期後半は「韻文を楽しむ」をテーマに授業を進めました。週二時間しか授業がないので、取り上げた詩人は中原中也と萩原朔太郎に絞りましたが、行事の当たり具合でテスト前の授業が連続して欠けてしまったクラスもあり、朔太郎の詩はゆっくり味わえなくなってしまいました。そこで、授業中に提起した問題を解く手掛かりとなるよう、詩の授業のまとめプリントを作りました。これを教科書とプリントの詩と合わせてじっくり読んで、詩の理解を深めてください。
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T 詩とは何か?詩のよさとは何か?
「詩とは何か」と問われた時、「感動を短い文で表わしたもの」と答えたり、「詩のよさとは何か」と聞かれて「感動が伝わってくること」と答えた人もいます。それは間違いではありませんが極めて不充分な答えです。なぜなら、短い小説よりもずっと長い詩もありますし、音楽や絵画や映画やテレビドラマでも感動は伝わってくるからです。「他の芸術」や「他のジャンルの文学」との違い、あるいは「芸術とは無縁の言語表現」と「詩」との違いを気に掛けないと、十分かつ必要な詩や詩のよさの説明にはなりにくいようです。
音楽や絵画と文学との一番大きな違いは表現手段にあるでしょう。音楽は振動する音の配列を、絵画は反射する光の組み合わせを表現手段としているのに対して、文学は言葉という記号を表現手段としており、その記号の配列が喚起する意味やイメージの組み合わせ方が問題となります。つまり、ことばを使った芸術が文学ということになるのですが、ここで再確認しておきたいのは、ことばの源は「文字」ではなく「音声」であるということ。そして詩は物語以上に朗読されることが常であるということです。
小説やエッセイや日記など、散文と呼ばれる文学のおもしろさは、ストーリーの展開や登場人物の心理や風景の描写に重きが置かれています。一方、韻文と呼ばれる詩や短歌や俳句では、ことばのリズムと音の響き、すなわち音楽性が重視されます。詩も歌も吟詠朗読することによってその味わいが深まり、読み方によって詩の理解の仕方や程度がはかれるのはそのためです。簡単に言えば耳で聞いて心地よく、覚えやすいのが良い詩の条件の一つだということです。つまり散文と韻文との違いに目を止めたときに浮かび上がる「詩らしさ」は、その音楽性にあるといえるでしょう。だからこそ、それがやがて肉声による会話として上演されることを前提にして作られている戯曲は、散文でありながら詩と同様の音楽性が重視されるのでしょう。それをあえて否定する現代詩や前衛的な演劇があることは、それだけ詩や演劇にとって音楽性が重みをもつことを証明しているといえるでしょう。
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U リズムとオノマトペ
リズムはフレーズを作ることばの音数によって産まれます。日本の伝統的な詩の形式である短歌や俳句は音数律による定型詩であり、五音と七音の組み合わさったリズム(七五調)は、日本語を母国語とする人々の語感の基礎となっています。伝統的な音数の縛りや韻の踏み方にとらわれない自由詩であっても、七音五音のリズムが基本となった詩は、親しみやすくて覚えやすく、それを口にするときは何やら懐かしい感覚にひたれます。中原中也の多くの詩もそうした詩の一つです。
一方、伝統的な和風のリズムが古めかしさを感じさせ、あるいはその響きが情緒的になりすぎることを嫌って、短歌や俳句であっても別の音数の組み合わせを選んだり、あえて決まった音数に合わせないようにすることもあります。抽象的な観念の世界を描きたい、卑俗な日常の世界を写し取りたい、素朴な感情を素直に表わしたいといった場合には、七五のリズムから解き放たれた表現の方が効果的な場合もあります。しかし、そうした定型のリズムを崩した表現が短歌や俳句といえるのかどうか疑問を持つ人もいます。詩にも散文詩と呼ばれる詩の形式がありますが、完全に音楽性を否定した表現を詩と呼ぶのに抵抗を感じる人も多いのです。
そこで詩人に求められるのが、その詩固有のリズムや音の響きを産み出すことです。押韻、つまり各行の頭や尻尾の音に注意を払って音の響をそろえるのも、ある特定のフレーズを繰り返すのも、リフレインによってリズムを産み出す試みです。また、農耕・漁労民族の音楽的特徴である二拍子や四拍子を避け、騎馬民族の特徴である三拍子を取り込んで軽やかな雰囲気を出したり、日常の生活では感じにくい五拍子を意識的に使って、現実世界との違和感を引き出したり粘りつくような不安感をかきたてたりしています。
さらに、使い古されたオノマトペを使わないようにし、そのものの本質やその時の固有の状態をリアルに感じさせる音の組み合わせを見付けようとすることも、独特な音の響を生み出す有効な方法です。中原中也や萩原朔太郎は印象的なオノマトペを幾つも産み出し、それが彼らの詩の特徴にもなっています。
何を詩と呼びどのような表現を詩的な表現と呼ぶのかを簡単に説明することは難しく、詩と向き合う視点によって答え方も様々です。ただ次の二つのことは押さえて下さい。一つは、いくらインパクトのある言葉でも、トイレの壁や机に書かれた落書きは叫びでしかなく、いくら心に染みることばが日記に綴られていても、それはひそかなつぶやきでしかないということ。もう一つは、いくら七五のリズムで作られていても学校の掲示板や街角の看板に書かれた標語を短歌や俳句と呼ぶことはできないし、おもしろい音の繰り返しのことば遊びや駄洒落が詩になるとは限らないということです。
では、こうしたことを頭に置きつつ、幾人かの批評にも目をとめながら、中原中也と萩原朔太郎の詩を味わってゆきましょう。
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V 中原中也の詩のリズムとイメージ
ランボーやヴェルレーヌといったフランス象徴詩に影響を受けた中原中也の詩が今でも多くの若者に愛唱されているのは、詩誌『四季』の同人となった中也が伝統的な抒情の世界を親しみやすい口語でうたったところにあるでしょう。柳田邦男は、中也の詩には「読む人を中也の『悲しみ』の世界に引きずり込む」リズム感があるといいます。また「詩というものは、吟遊詩人の歌い聞かせに象徴されるように、身体感覚に訴えるものだった、朗読しやすく、聞く者の耳に心地よく響く。それが身体感覚に乗る条件と言える。中也の詩は、七五調に限らず、そういう身体感覚に乗りやすいリズム感を備えているのだ。」といっています。
それがどのようなことか「また来ん春……」でみてみましょう。ソネット形式で書かれたこの詩は十一行が七音五音の組み合わせでできています。その七五調のリズムが、失ったものを懐かしむ切ない感情をしんみり染みいるように表現しています。しかもそればかりではありません。第三連三行目の「何とも云わず」と「眺めてた」の間に一文字分の空白を置くことで七五のリズムを崩しています。その「間」による破調が静かな緊張感を生み出し、張り詰めた悲しみの深みに読み手を引きずり込みます。こうした間の効果や、最終行の「……」で表現された余韻も、詩の全体に流れるリズムがあってこそ得られるものです。
また、柴門ふみは中原中也の「リズムの心地よさ」について触れ、「あらゆる創作作品はリズムが大切で、人の心に気持ちよく伝わるのはリズムがいいからだということです。(中略)リズムとテンポ。それは、人間の歩く速さとか、心臓の鼓動とか、呼吸のテンポと微妙に響あっているのではないかという気がします」と述べています。「月夜の浜辺」のリズムは、第一連の「月夜の晩に、ボタンが一つ/波打際に、落ちていた」にもあらわれているように七音が基調です。七音のリフレインの中に「落ちていた」いう五音のフレーズと「僕はそれを」という六音のフレーズのリフレインがはさみ込まれているのです。こうした七音のリフレインは、月夜の浜辺に寄せては返す静かな波のリズムをイメージさせます。そしてそのゆったりとしたテンポで繰り返される七音のリズムは、「波打際」という境界のこっちに残されあっちに行かれぬ「僕」の切なさの溜め息のようにも感じられます。そのどうしようもない切なさは、ただ一つ奇数行で構成され、かつ行の始まりが三文字落とされてリズムが崩れている第四連に最も強くあらわれています。ここでそうしたメッセージがせまってくるのも、規則正しく揺らめく光の帯の境界がしっかりイメージされるような「月夜の晩に」のリフレインがあるからでしょう。
この「月夜の浜辺」の世界は、静かな光に満ちた世界です。満月に照らし出された海は昼のような青さをたたえてはおらず、波に反射する光の明滅がどこまでも広がっています。波打際の光の帯の揺らめきはあっちの世界とこっちの世界の境目が定まることなく不安定であることを教えてくれます。そしてそこには空に浮かぶ丸い月と対をなすようなボタンが一つ浮かび上がって落ちているのです。目の前の世界は海でありながら水はなく、そうであればこそ、そこは柴門ふみの云う何の音もしない無音の世界であり、ただ清らかな光に満ちた「渇いた透明なイメージ」の世界だといえるでしょう。波打際に落ちているボタンが象徴しているものが何かを考えるには、リフレインが産み出すこの詩のリズムに重ねられたイメージをしっかり感じ取り、破調に表われたメッセージをしっかり読み取ることが大切です。
さらに、ここで指摘されている「渇いた透明なイメージ」は詩「一つのメルヘン」でより明確に表現されていることに気付きます。ソネット形式で起承転結の物語になっている「一つのメルヘン」は、七音・五音のフレーズが含まれていますが七五調の詩とはいえません。しかし「さらさらと」という五音のオノマトペのリフレインが、この詩の神秘的なイメージを支えています。秋の夜に射す「非常な個体の粉末」のような陽の光の感触を表わす擬態語は、光が擦れる擬音語となり、やがて流れ始めた水の透明さと静かな流れの水音を表わすオノマトペへと変化していきます。そうした「さらさらと」のリフレインが入っていない第三連に現われるのが「淡い、それでいてくっきりとした/影を落としてゐる」蝶でした。おぼろげで頼りない存在でありながら、確かにその存在を感じさせる何かが、命の象徴であるかのような水を湧き出させます。
岡井隆はこの詩を人にカタルシスをもたらす「水の新生の物語」と定義していますが、その水はやがて「はるかの彼方」からこっちの世界へと流れてくるかのようにも見えます。岡井隆が感じた「中原中也の『一つのメルヘン』のふかい余韻」は、詩の最終行の「……」にこれから始まる物語を予感したからでしょう。それもこの詩が「さらさらと」のリフレインが生み出すリズムによって支えられているからこそ生まれたものだといえるでしょう。それと同じく「また来ん春……」の最終行の「……」に、また繰り返される春の光の中に愛する子供だけがいない悲しみが深々とたたえられているように感じられるのも、詩を形作っている哀愁に満ちた七五のリズムがあったからです。
そのAにつづく
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二〇〇四年度 現代文便り ベランダの風 その九のA 二〇〇四年十二月六日
W 萩原朔太郎の詩のオノマトペ
室生犀星とともに詩誌『感情』を創刊した萩原朔太郎が「日本近代口語詩の完成者」と呼ばれているのは、彼の詩には伝統的な七五調に頼らない固有の音楽性があるからです。『月に吠える』には、表わされるべきもののイメージ≠ニ表わすことばの響き≠ニが深く結びついた印象的なオノマトペが多く見られます。教科書に載っていた「遺伝」は第二詩集『青猫』に収められていますが、第一詩集『月ni
吠える』のいくつもの詩の中には、すでに「遺伝」と重なり合う様々な感覚やイメージが見て取れます。
『月に吠える』の中の詩「見知らぬ犬」には「さびしい空の月に向って遠白く吠えるふしあわせの犬のかげ」が登場します。「ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、」というフレーズで始まる第二連には「べらべらと」風にふかれた長屋の屋根や、空き地で「しなしなと」ほそく動くひからびた草の葉っぱが描かれます。第三連は第二連と同じフレーズのリフレインではじまり、第四連はそれが凝縮された「ああ、」という感動詞に続いて、「どこまでも、どこまでも」という五音のリフレインが粘りつくように続きます。こうした五音のオノマトペが持つ不安定なリズムそのものが、朔太郎が抱いている漠然とした不安や気だるさを感じさせ、それを誰も受けとめることなどできないという孤独感や絶望感、しかしそれでもなおそれを求めずにはいられぬ執着までをも絶妙に表現しています。
また、この詩「見しらぬ犬」の「しなしなと」は、詩「愛憐」の草むらのりんどうが自分たちを誘うしぐさとしても使われています。それは詩「青木の梢をあふぎて」に登場した「心のまづしい乙女」が、わたしの愛を求めてふるえている様子をあらわしたオノマトペである「ほそほそと」や「ひらひらと」と重なってきます。こうした孤独にうち震えてさ迷う魂の様子は、詩集『青猫』の詩「艶めかしい墓場」では「どろどろと生臭く/かなしく
せつなく、ほんとにたへがたい哀傷の臭ひ」がし、「わたしの生命や肉体はくさってゆき/「虚無」のおぼろげな景色の影で/艶めかしくも ねばねばとしなだれて居る」と描かれていきます。五音のオノマトペの響きと、その音数のリフレインによるリズムが、形を失った肉体の行き所を失った魂の頼りなさを印象付けているのです。詩「遺伝」と同じ詩集に収められた詩「自然の背後に隠れて居る」では、自己の存在の不確かさの影でもある自分の不安の不確かさを「およおよとする象像」や「そわそわといふ小笛」といったオノマトペで見事に表現しています。
ここまでたどってくれば、詩「遺伝」の「のおあある とおあある」という犬の遠吠のオノマトペが五音を印象付けるように表記してあることや、そのリフレインが漠然とした不安におびえる自己の存在の不安定さをイメージしたものであることに気付くでしょう。詩「遺伝」には、犬の遠吠えと対をなす、もう一つのリフレインがありました。それは母と子の会話です。犬のおびえを直感的に感じとった子供の「犬は病んでいるの?」という問いに、母は「いいえ子供/犬は飢えているのですよ。」と返します。もっとも親密であるはずの母には、もう精神的かつ本能的な自己の存在のおびえを感じ取るような感覚はなく、不安や恐れは「飢え」に象徴されるような現実的かつ物理的な問題としてしかとらえられていません。そうした母と子の断絶は、母が子を「子供」と呼ぶ不自然な呼称とともに、イヌハ・ウエテ・イルノ・デスヨという無機的な三音の繰り返しが生み出す冷たいことばの響きによってもあらわされています。
遠い祖先から受け継がれた記憶におびえる犬の遠吠えのリフレインと、自分をかき抱き安心させてくれるはずの母に不安を受け止められなかった子供の孤独な姿のリフレインの絡み合いが、この詩の発する不安感をより一層高めています。恐れにこころを青ざめさせて「のおあある
とおあある のおあある やわああ」と夜陰の道路にながく吠える犬の遠吠えは、詩「自然の背後に隠れて居る」の子供の叫びとぴったり重なっていることに気付くでしょう。
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X 再び「詩とは何か」
今回の授業では音楽性に着目して、それぞれの詩の特徴や詩のよさを見つけようとしました。しかしそれ以外に、ものの姿を豊かにイメージさせる詩の色彩感や、日常性にまぎれて気付かないものごとの本質をすくいとる詩の象徴性、日常性から人を解き放ち発想を転換させる飛躍など、様々な要素が詩には含まれています。また、一つ一つの詩を味わう際には、そこで選ばれ組み合わされ新たに生み出された詩のことばと同時に、その元となる感情や思想、あるいは鮮烈な感覚やぼんやりとした記憶そのものを味わっているわけですから、ことばの意味と音とを切り離して味わうことなどナンセンスです。ただ、ことばの持つ音の響きやことばの組み合わせが生み出すリズムを感じないまま、ことばの意味ばかりに目を向けて、詩の意味を理屈でこねくり回してばかりいても、けっして詩を味わったことにならないということに気付いてほしかったのです。
その上で、もう一つだけ押さえておきたいのは、「何の感動もないところに人を感動させる表現は産まれず、人間の絶対的な孤独感をかすかにでも感じていなければ、人は詩を書こうともせず、人の詩を味わおうともしないだろう」ということです。ジャンルを問わず、近代文学の底に流れているのは、宗教という装置が子供のおもちゃとなってしまった世界に、たった一つの個体として存在している自分の存在を確かなものにしたいという欲求です。それを「近代的自我の確立」とか「アイデンティティの確立」の欲求ということもありますが、いずれにせよ自分が「この世でどう存在していけるのか」を探ろうとする欲求です。
ある人は再生された神や仏、あるいはすべての生命が等しくその要素となっているような自然といった「超人的な存在」と自分との結びつきを見付け、それに「抱かれてあることの感動」をことばにしていくこともあるでしょう。しかしその一方、自分と他者とを結ぶかすかな糸を見つけようと、絶望的な孤独感の中でもがく叫びやつぶやきを、練り上げ、削りとり、たたき上げながら一つの表現に高めていこうとする人もいます。
詩は、自分が得た強烈な体験をことばで訴え、鮮烈な印象や深い感動をあせることのないようにことばで保存する行為でもあります。とらえどころのない感情を形にし、見えぬ不安や見果てぬ夢に形を与えようとする行為でもあります。そのいずれにせよ、そのことばによる表現が、有限である人間の肉体の限界をかるがると越え、現実を縛る時間と空間をも越え、接点が見えぬまま存在していた見知らぬ人と人とを共鳴させ、そこに新たなイメージを産み出し続けて行く可能性を信じているからこそ、詩を書き続けようとするのでしょう。
現実によりかかって利益をむさぼろうとする人には、詩はただのオシャレな飾りでしかないでしょう。今日のパンの恵みに素朴に感謝できる人は、詩に救いの道を求めないでしょう。文学は道徳ではなく、標語は詩ではありません。現実の平面から魂を飛躍させる力を持ったことばが、そのことばの表現の中にあってこそ、それを詩と呼ぶことができるのではないでしょうか。
今回授業で取り上げられなかった石垣りんの詩「崖」や、谷川俊太郎の詩「二十億光年の孤独」も、そうした視点で味わってもらえれば幸いです。
そうそう、この授業の最初に図書館で、君たち一人一人が選んだ詩や歌が、誰のどんな詩や歌だったか覚えていますよね。それがなぜ詩(歌)なのか?その詩(歌)の良さは何か?それが答えられたら授業を受けたことになります。
愛するものを忘れない人にはきっと良いことがあるはずです。
※ 今回の授業で使った中原中也のプリントは右の本からコピーしました。興味のある人は職員室にあるので手にとって見てください。
「ことばの花束 中原中也のこころ」 佼成出版社 \1,600
悲しみの風(山折哲雄)
体に中也のりズムが沁みこんでいる(柴門ふみ)
求道の詩―いかに生き、いかに在るべきか(福島泰樹)
中也の詩を読む(岡井隆)
可憐な少年鼓笛兵を演じて逝ったリズムの天才、詩人中原中也のイメージ(久世光彦)
「悲しみ」は生きる糧(柳田邦男)
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