参考資料 @
二〇〇四年度 現代文便り ベランダの風 その三 二〇〇四年六月二八日
一学期後半の学習のまとめプリント その二
U 『桜桃』授業ノート
これは太宰治の『桜桃』に関する授業で触れた事柄をまとめた「ノート」です。何をどう読むのが「正しい」かということよりも、話の展開に沿って、作品の一つ一つの表現に注目し、その作品にまつわるあれこれを知ることから、そこに秘められている何かをあれこれ考えることの楽しさを味わってもらうのが、今回の授業の主眼でした。しかし週二時間しか授業がない上に、一学期は行事や臨時休校で十分に授業時間が確保できず、いろいろな問題をゆっくり考える時間も取れませんでした。
そこで各自、『桜桃』『走れメロス』『羅生門』の作中の表現や作者の履歴などに注意しながら作品を読み返し、以下の文章を手引きにして、作品に対する理解を深めてください。なお、期末考査ではこのノートが問題文の一部として使用されます。
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〔一〕 「おまけ」にこそある作品のおもしろさ
主要なストーリーの枠外に描かれた描写に注目することで、話の筋を追っているだけでは見えてこない、作品のもう一つの顔を見つけることができれば、小説を読むことの楽しみは一層深まる。
『羅生門』は、下人が駆け下りていった夜の底を老婆がのぞき込んでいる場面で終る。下人の不安と迷いに始まり、老婆との出会いによって虚無的な結末を迎えるストーリーの展開から言えば、下人が立ち去った後の羅生門の楼上の描写は、余計なものとも思える。
『走れメロス』の結末は、一人の可愛らしい少女が突然登場し、裸体のメロスに緋のマントを捧げ、それにメロスが赤面する場面である。セリヌンティウスとメロスとの抱擁で友情と信頼が再確認され、群集によって王の改心が称えられる場面で終っても話の展開としておかしくない。しかも、この作品の下敷きとなったギリシャの伝説や叙事詩には、少女もマントも登場していないのである。
『桜桃』が、作中人物の言う通り「夫婦喧嘩の小説」だとするならば、男が妻とのやり取りに耐えられず、仕事を口実にして出かけた飲み屋の女に、「飲もう。今夜はとまるぜ」と呼びかける場面で終ってもよさそうである。しかしこの作品は、女が差し出した大皿の桜桃を見た男が、子供たちのことを思いながらも、桜桃を一人でまずそうに食べながら「子供より親が大事」と虚勢のように心の中で呟く場面で終っていた。
三作品の共通点は、物語の展開が一応の結末を迎えた後に、わざわざ付け加えられたような部分があることである。特に太宰治の二作品では、少女が捧げる緋のマントと勇者の赤面の組み合わせに対する、飲み屋の女が差し出す桜桃と珊瑚の首飾の想像と男の虚勢というように、重ねて描かれた「赤」と突然登場した「女」の姿が印象的である。
『走れメロス』は、太宰治が井伏鱒二の紹介で石原美知子と結婚した翌年の一九四○年に発表された。一方の『桜桃』は、山崎富栄と心中した前月の一九四八年五月に発表された作品である。二つの作品には八年の隔たりがあり、その間には第二次世界大戦などの社会的な激動や、太宰個人の思想的な変遷もある。それでもなおそこに存在する「赤」と「女」の重なりは、太宰治の作品に横たわる重要な問題を象徴するものかもしれない。
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〔二〕 象徴としての「色」に注目する
作品の読みを深める上で、象徴的な表現に注目することは有効な方法である。『羅生門』では、「羅生門」や「きりぎりす」や「にきび」などを象徴と考えたが、『桜桃』では最後の場面で出てきた桜桃を重要な象徴と考えることにした。
象徴とは「抽象的なものを具体的なもので表すこと」だが、具体的なもののイメージ(五感でとらえられる映像や音響や肌触りや匂いなど)の中心をなすのは一般に視覚的なイメージである。しかも、『桜桃』では、男は桜桃を「珊瑚の首飾のよう」だと形容しつつ、「極めてまずそうに食べては種を吐」いていたことから、桜桃の味覚ではなく視覚的イメージに比重を置いてみた。
視覚的なイメージの要素としては、「形」「大きさ」と並んで「色」が挙げられる。店先や食卓に並んだ桜桃の視覚的な特徴は、その色の赤さと、多くは二つの実が蔓で繋がっている形にあるが、まずはその「赤」に注目した。
『桜桃』は色彩感に乏しい作品であり、すべての色を抜き出してみても赤白黒の三色しかない。一つは母の「おっぱい」「お乳」の白。一つは「生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す」の血の赤と、飲み屋の女が出した桜桃の「蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は珊瑚の首飾のように見えるだろう」という桜桃の赤。そして男が原稿用紙と辞典を包んだ「黒い風呂敷」の黒である。
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〔三〕 「涙の谷」の妻と神
『桜桃』で最も印象的な表現は、二回半繰り返される「子供より親が大事、と思いたい」という、男の内心のつぶやきであるが、象徴的な表現として忘れてならないのは、妻が男を沈黙させた「涙の谷」という一言である。
『桜桃』の冒頭は旧約聖書の詩篇第百二十一篇第一節の「われ、山にむかいて、目を挙ぐ」であるが、「涙の谷」もまた旧約聖書の詩篇(第八四篇第七節)の言葉である。
妻のこの言葉に男が黙ったのは、それが聖句としての意味を持った言葉だったからに他ならない。文語訳聖書の「涙の谷」は、口語訳では「嘆きの谷」あるいは「バカの谷」と表現されている。『小型版 新共同訳 聖書辞典』(キリスト新聞社)によれば、この嘆きの谷とは「バルサムの木の谷」のことであり、バルサムの生える、荒れ果てたエルサレムの谷を指すものであり、「バルサム Balsam」はヘブル語では「バカ Baca」と呼ばれ、幹から薬用になる乳のような樹脂を出す潅木である。
嘆きの涙は母の乳と重なる白いイメージをそこに作り上げている。生活の苦労を想像させる「汗」の流れる場所が、「お乳のあいだに」ある「涙の谷」だとする妻の言葉には、悲しみや苦しみからの救済を求める「女」の悲痛な思いが胸の内に隠されていたことを示している。それは作品の冒頭の言葉と対を成しており、神による救済を求めつつ、罪に対して神が下す罰を意識させる。ここにおいて「白」で象徴される妻の存在は、男を裁く神のようにも見える。
なお、この「涙の谷」という言葉は、太宰治が作家を志望した頃から強い関心を払い、太宰の高校時代に自殺した芥川龍之介の作品(『黒衣聖母』や『続西方の人』など)にも何度か使われていた言葉である。
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〔四〕 白い妹と黒いメロス
『走れメロス』に描かれた白は、捕らえられたメロスを問い詰める「王の顔」が「蒼白で、眉間のしわは刻み込まれたように深かった」という表現のみである。その王は「ちょっと遅れてくるがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」とメロスを挑発する。メロスは「市を暴君の手から救うのだ」といい、そのために自分の命をかけ、親友を人質に差し出すのだが、それは同時に、王によってメロスの信実が試され、裁かれる行為でもあった。
一方「涙」にまつわる表現としては、メロスが市に向かう途中と刑場についた後、幾度か泣く場面がある。メロスは濁流の前で「男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願し」、「神々も照覧あれ!濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる」と濁流に飛び込み、「めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか」と思う。その後、灼熱の太陽の下で倒れた時には「天を仰いで、くやし泣きに泣き出し」「神も照覧……真紅の心臓をお目にかけたい」と嘆いたが、ついにメロスは「どうとも勝手にするがよい。やんぬる哉」と挫折してしまう。ここで勇者はいったん死に、哀れで弱々しい人間がそこに横たわるのである。
しかしその時、突如、足もとに清水が流れ始める。「岩の裂目から滾々と」湧き出る清水をメロスが一口飲むことで「義務遂行の希望」「わが身を殺して、名誉を守る希望」が生まれ、メロスは真の勇者として復活する。
この泉の描写は「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し心に広い道を見ている人は。嘆き(涙)の谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」という、「涙の谷」が登場する旧約聖書の詩篇(第八四篇第七節)の言葉を連想させる。
その後、再び走り始めたメロスは、沈む夕陽を前にして「待ってくれ、ゼウスよ。私は生まれた時から正直な男であった。正直な男のままに死なせてください」と叫ぶ。そして、刑の執行を免れたセリヌンティウスとの告白の後、二人は「嬉し泣きにおいおい声を放って泣」き、「群衆の中から、歔欷(すすりなき)の声が聞こえた」のである。
王は「人の腹綿の奥底が見え透いて」しまい「私欲のかたまり」である人間を裁く審判であり、本当は「平和を望んで」いた。人を超えて人を裁く「蒼白」の王もまた、神の位置にあるといえよう。メロスの行為は、セリヌンティウスとの約束を果たすことで王を改心させるためのものであったが、それは王によってメロスの信実が試されることであり、それに勝利することは神の試練を乗り越えることでもあった。
そもそも、この物語の始まりは、メロスが市へ妹の花嫁衣裳(白)を買い求めに行くことにあった。ここでの結婚は「神々への宣誓」により、人と人とが固く結びつく行為である。その婚礼の衣裳をメロスが買うということは、メロスが神のしもべとして登場していることを示すものだとも考えられる。
こうした「白」と対になっているのが、二つの「黒」であった。妹の結婚式で「新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を襲い」、それはやがて濁流となってメロスの行方をはばむ。また、復活したメロスが、路行く人を押しのけて、沈む太陽の十倍も早く、「ほとんど全裸体で」、「口から血を噴き出し」、「赤く大きい夕陽ばかりを見つめて」、「わけのわからぬ大きな力にひきずられて」走る姿は、「黒い風のよう」と形容されている。
さらにもう一つ黒いものを挙げるならば、それは夜の闇がある。この作品の冒頭は夜のシラクスの市であり、結末部分もすでに陽の落ちた夜の刑場であった。王の邪智暴虐、奸佞邪智によって寂しく沈み込んでいた町は、人間不信によって光も色も失った、孤独な人間の心象風景だと考えられよう。そうであれば、陽の落ちた刑場で、少女から赤いマントを捧げられた裸のメロスが赤面する場面は、あばかれた人間の心の奥底が、別の何かでおおい隠されようとしている場面としてとらえることもできよう。
ここではとりあえず神の白と、人の世の愛と誠・正義と信実の赤と、黒いメロスが対になっていたことに注目しておきたい。
一方、『桜桃』でただ一度出てきた黒は風呂敷である。それは、妻の「つめたい自信」の前で「少しでも動くと、血が噴き出す」ために沈黙し、「家の中の憂鬱から、のがれ」るために、男が「原稿用紙と辞典」を包んだ「黒い風呂敷」である。それが包んでいたものは仕事(芸術)の道具であり、それを持って「物体でないみたいにふわりと外に出」た男は、「自殺のことばかり考えている」のである。
ここでは自分を裁く妻の存在(白)と自分を追い詰める家族(赤)と自分が求める芸術(黒)が強い緊張関係に置かれていることに注目しておきたい。
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〔五〕 太陽と血の赤
『走れメロス』の中に出てくる「赤」は三つに大別することができる。一つは太陽にまつわる表現で、特に夕陽の表現は次のように印象的である。
「斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている」
「陽が沈む。ずんずん沈む。まってくれ、ゼウスよ」
「塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている」
「「いやまだ陽は沈まぬ」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた」
「陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとしたとき、メロスは疾風のごとく刑場に突入した」
もう一つは血と心臓に関する表現である。
「神も照覧、(中略)私は不信の徒ではない。ああできることなら私の胸を裁ち割って、真紅の心臓をお目にかけたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい」
「風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸もできず、二度、三度、口から血が吹き出た」
消えゆく夕陽も、倒れた勇者メロスの心臓と血も、失われかけた愛と誠と信実の象徴である。
メロスは王によって否定された「愛と誠の偉大な力」の発揮という、自らに課した「義務」の実現のために走っていた。メロスはそれを、「わけのわからぬ大きな力」のような「私の定まった運命」なのかもしれないと感じていた。
そのメロスは、灼熱の太陽によって「幾度となく眩暈を感じ」「ついに、がくりとひざを折」り、「身体疲労すれば、精神も共にやられ」、ついには「セリヌンティウスよ。私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ」と訴え、「正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかもばかばかしい。」と「勇者に不似合いな不貞腐れ根性」で開き直ってしまうのである。
ここには、自ら課した愛や信実の実現という課題に疲れ、他者から尊敬される人物を演ずることに苦痛と限界を感じた人間の姿がある。
それは『桜桃』に描かれた、人々を喜ばせる「奉仕」に疲れ、「自殺の事ばかり考えている」男の姿と重なってくる。
〔六〕 含羞の赤
こうした太陽と血の赤と対になっているのが含羞の赤である。恥じらいは、隠すべき何かがあらわになったときに感じる感情である。恥の意識(羞恥心)は自分の倫理観から外れたものに対する感情であり、またプライド(自尊心)が傷つけられたときの感情である。羞恥心の多くは自尊心と裏腹の関係にあるといえよう。
メロスの「あす、おまえの結婚式を挙げる」という言葉に「妹は頬をあからめた」。また、抱き合うメロスとセリヌンティウスに背後から近付いた暴君ディオニスは「顔を赤らめて」「信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうかわしも仲間に入れてくれまいか」と懇願した。そして少女に緋のマントを捧げられ、セリヌンティウスの「君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」という解説を聞いた「勇者は、ひどく赤面した」のである。
『走れメロス』で繰り返される表現の一つは、「笑い」である。それは「市を暴君の手から救うのだ」と悪びれずに言うメロスに対する王の「憫笑」が最初であり、次はメロスの挫折を予測した王が「そっとほくそ笑んだ」場面である。その後、村に戻った疲労困憊のメロスに対してうるさく質問を浴びせ掛ける妹に「無理に笑おうと努めた」という場面があり、その次は「笑って村人達にも会釈をして、宴席から立ち去る」場面が続く。
メロスは村から出発する時に「笑って磔の台に上ってやる」と意気込み、男泣きに泣きながらゼウスに手を上げて哀願するメロスの叫びを「せせら笑うごとく」躍り狂う濁流を泳ぎ切った。しかし灼熱の太陽に倒れたメロスは、「私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。(中略)これが、私の定まった運命なのかもしれない」と考え、遠い刑場のセリヌンティウスに向かって「私は負けたのだ。だらしがない。笑ってくれ」といい、「王は、ひとり合点して私を笑い、そうしてこともなく私を放免するだろう。そうなったら、私は死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切り者だ。地上で最も、不名誉の人種だ」と嘆き、「セリヌンティウスよ。私も死ぬぞ、君と一緒に死なせてくれ」と哀願した。
ここにある笑いは、自分の苦悩を他人に気付かれないように隠す笑いと、堕落や不誠実、あるいは人間の弱さに対する侮蔑を含んだ笑いである。
ただ一つこれらと異なる笑いは、セリヌンティウスがメロスの告白を聞き、メロスに求められて彼の頬を殴った後「優しく微笑」んで、自分の頬を殴ることを求める場面である。この笑いは、緊張が解けて心を許しあい、信頼に満ちた者同士にのみ浮かぶ微笑であろう。
また、「恥」と「笑い」との関連で、作中二度繰り返される「口惜しい」という表現にも注目したい。そのはじめは、王が「はは、いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心はわかっているぞ」とメロスを馬鹿にして笑ったのに対して、メロスが「口惜しくて地団太踏んだ。ものも言いたくなくなった」場面である。二度目は結末で、「この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」というセリヌンティウスの解説である。ここにはプライドが傷つけられた事と、隠されるべき内面があらわにされたことへの羞恥心を読み取ることができる。
こうした「笑い」と「口惜しさ」と「赤」の組み合わせから、少女が捧げた「緋のマント」が象徴するものと「勇者の赤面」の意味をとらえなおすことができそうである。
こうした屈折した笑いの底にある、他人に対する精一杯の気遣いと、自尊心が傷つけられることへの恐れは、『桜桃』の中にも繰り返されていた。
男は「常に子供たちのご機嫌ばかりを伺って」おり、「家庭に在っては、いつも冗談を言」い、他人に対しても「心がどんなにつらくても、体がどんなに苦しくても、ほとんど必死で、楽しい雰囲気を創る事に努力」し、「悲しい時に、かえって軽い楽しい物語りの創造に努力」することが、「最も、おいしい奉仕のつもり」でいた。「気まずい事に堪え切れない」男は「薄氷を踏む思いで冗談を言い」、妻もそれに応じて笑うのだが、その実内心は苦痛に満ちていた。
その結末部分で、男は「極めてまずそうに」桜桃の種をはき、「心の中で虚勢みたいに」「子どもよりも親が大事」と呟くのである。すでに笑う力さえも失ってしまった男の、それでもなお「虚勢」を張って内面を隠そうとする姿は痛々しい。その男に対して、女が差し出した赤い桜桃が象徴するものが何かを考えることは、やはり重要な課題となりそうである。
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〔七〕 裸体と衣裳
メロスは復活した後、「風態なんかはどうでもいい」「ほとんど全裸体で」「二度、三度、口から血が噴出し」ながらも走り続け、磔台のセリヌンティウスの両足にかじりつき、互いの頬を殴りあった後「ひしと抱き合い」、一人「まっぱだか」で群衆の中に立っていた。その裸体を隠すべく、少女が緋のマントを捧げるのである。
生まれつきの正直者で真の勇者のはずであったメロスは、「愛と誠の力」を発揮する事に疲れ、「不貞腐れた根性」に襲われ、友を裏切ることも「人間の定法」と開き直った。しかし、自らの運命に引きずられてその義務を果たした「真の勇者」メロスは群集の前で「罪」を告白した。少女は、勇者にふさわしくない人間の弱さが人前にさらされる事に耐えられず、勇者にふさわしい愛と誠・正義と信実の衣裳でそれをおおい隠そうとしたのである。そしてメロスもまた、隠されるべき弱さを自分がさらしていた事に気付くと同時に、弱い存在でありながら勇者ぶってしまった自分を恥らうのである。
作中で、この「裸体」と「緋のマント」と対になっている物が、メロスが市に出かけて妹に買い与えた「綺麗な」「花嫁の衣裳」であり、それは神々の前で男と女が誓いを立てて結ばれるときの衣裳である。
一方、『桜桃』では、「お乳のあいだ」の「涙の谷」という言葉が男を黙らせた。「馬鹿げた冗談ばかり言っている」男は、「あちこちに若い女の友達もある様子」で、「たたけばたたくほど、いくらでもホコリの出そうな男」である。それでも「夫婦はいたわり、尊敬しあい」「父も母も負けずに子どもをかわいが」っているが、「それは外見。母が胸を開けると、涙の谷。父の寝汗もいよいよひどく、夫婦は互いに相手の苦痛を知っているのだか、それにさわらないように努めて、父が冗談を言えば、母も笑う」のである。
ここには内面をさらさないことでしか保てない、常に危機にさらされた不安定な人間関係と、他者と隔絶された孤独な心がある。
そうした妻の、開けた胸のお乳の間の涙の谷と対になっているのが、飲み屋の女の「ばかに綺麗な縞」の着物である。男はそれに一時なぐさめを求めるものの、出された桜桃をうまそうに味わうことはできなかった。家族を愛していながら、その愛を実現することができぬ罪の意識をぬぐえないでいるのである。
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〔八〕 結婚と信頼と秘密
そもそも、『走れメロス』の物語の発端は、メロスが妹の花嫁衣裳を買い求めに行くところにあった。またセリヌンティウスを人質として差し出し、王に愛と信実を試される事になったのも、妹の結婚式を挙げるのために村に帰るためであった。
「疑うのが、正当な心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない」と落ち着いて呟き「平和を望んでいる」と語る王に対し、メロスは「何のための平和だ。自分の地位を守るためか」と嘲笑した。そして、自分の死ぬ覚悟を示しつつも「足もとに視線を落とし瞬時ためらい」、「たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたい」ので三日処刑を待ってくれと王に願い出て、セリヌンティウスを人質として差し出す事になるのである。
村に戻ったメロスは、妹の結婚式宴席で新婦の妹に向かって「おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑うことと、それから嘘をつくことだ。(中略)亭主との間にどんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのはそれだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ」と言い、「妹の婿」に対しても「メロスの弟になったことを誇ってくれ」と言い置いて村を出発する。そして、刑場に向かう途中も「妹達は、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、今、なんの気がかりもないはずだ」と自分に言い聞かせた。ここに、愛と信実が試される具体的な場が、結婚(家庭)生活であり夫婦(家族)関係であることが強調されている。
一方、王が人を疑い殺し始めた最初は、「妹の婿」であった。その後、自分の後継者である息子、妹、妹の子、妻の順に殺し、賢臣アレキスを殺したのである。この殺害の順を考えたとき、王の人間不信の原因を、メロスが言うような王座を奪おうとする陰謀と考えるよりも、よりプライベート(個人的)で濃密な人間関係の秘密だと考えた方がよさそうである。
『桜桃』では、すでに破綻した家庭の姿が描かれる。男にはよそに若い女が幾人かおり、妻ばかりでなく「妻の妹」まで含めた濃密な人間関係を、「あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す」と表現している。障害を持った子供に対しても将来を悲観して「しばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込んでしまいたく思う」と語られ、自分に期待されている家族愛に応え切れない苦しい心中が、くどくど描写されていた。
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〔九〕 罪と裁きと許し
『走れメロス』で最も感動的な場面、そのクライマックスとも言えるのは、メロスとセリヌンティウスが互いに自分の罪を告白し、頬を殴りあう場面であろう。ここで注目したいのはセリヌンティウスが殴ったメロスの頬を、わざわざ「右の頬」と記してある点である。
新約聖書の「マタイによる福音書」の第五章は、一般に「山上の垂訓」と呼ばれる章であり、福音書のエッセンスとも言えるイエスの説教が収められている。その三十九節には「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と語られ、四十三節には「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」と語られている。そしてさらに、離縁や姦淫、偽りの誓いや偽善に対する戒めなどが繰り返し語られ、神の言葉に対する忠誠が求められている。
『走れメロス』はギリシャの古伝説とシラーの詩を下敷きにしたものであり、そこに登場する「神」はゼウスを中心としたギリシャの神々と考えるべきであろう。しかし『走れメロス』が発表された三ヶ月前に発表され、『走れメロス』と共に短編集『女の決闘』に収められた『駆け込み訴え』に気を留めた時、「右の頬」は新約聖書の言葉と重なり、神はゼウスではなくヤハウェと重なってくる。『駆け込み訴え』の主人公はイエスを裏切ったユダである。ここでのユダは、イエスを愛するがゆえにイエスの自分に対する冷淡さを恨み、イエスを裏切ってしまう。内容的には『走れメロス』と裏表の関係にある作品である。
メロスは自らを非凡な勇者と思い込み、濁流や山賊の試練を乗り越えたが、その愛と誠の力の実現に疲れ、人間の弱さをさらけ出した。その救われ難い絶望の底での弱さの自覚が奇跡を生み、メロスは真の勇者として復活した。それにより磔台の友も救われ、王の改心もなされて市民にも平安が訪れた。そういう点からすれば、この作品はキリスト教的な神への信仰が罪を負った人間を救済する話のようにも見える。事実、勝利は人間として裁こうとした王にではなく、絶望の底に倒れメロスに下され、しかもそのメロスの働きにより、王の罪までが許されたのである。
しかし、メロスが愛と誠の力を発揮する義務を遂行できたのは、その信仰や神への忠誠によるものではなく、また自分の意志の強さによるものでもなく、ただ「わけのわからぬ大きな力にひきずられ」ることによってなし遂げられたに過ぎない。仮に神による救済がメロスにもたらされたにせよ、愛と誠の力を発揮し、信実の存在を示すこと自体、個人の意志を超えた運命的なものの結果として表現されているのである。
この作品では、罪の許しがセリヌンティウスとメロスの殴り合い、すなわち人と人との間でなされ、群衆が王を許した点に注目すべきであろう。そして勇者としてのしるしであり、愛と誠の力の象徴である緋のマントによって、赤裸々となった人間の弱さを隠したのが、一人の少女であった点に再度注目したい。
一方、『桜桃』では、その冒頭に書かれた「われ山に向かいて、目を挙ぐ」という言葉も、妻が漏らした「涙の谷」も、神による救いを求める旧約聖書の言葉であった。
妻は夫につき従いながらも、自らの正当性を疑わない冷たい自信を抱いたまま男を許さないでいる。そして男は「一所懸命」「精一杯」に妻を気遣い子どもを愛していながらも、自らの仕事である芸術のためにはそれらを犠牲にせざるを得ないと思っている。しかも、それをあっさり正当化することはできぬまま罪の意識に苦しんでおり、その救いを自殺にしか求めることができないでいた。ここにおいて、神に求めているのは救いではなく、自分の罪に対する裁きであり、罪人に対して下されるべき罰でしかない。
そうした行き所のない男の行き場は、綺麗な着物を着た女のところでしかなかった。しかしそこでもなお男は、出された桜桃に家族の姿を見てしまい、それを振り払うために、「虚勢」を張らざるを得ないのである。
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〔十〕 緋のマントと綺麗な縞の着物
『走れメロス』は、正義が勝利し友情の固さが証明されるといった単純な物語、おとぎ話ではなかった。愛と誠の実現を願いながら、その重みに疲労して絶望して死に救いを求める人間の姿が描かれた。神に救いを求めながら、結局は運命にひきずられて生きるしかない人間の姿が描かれた。自分の弱さと罪を告白することで許しを求めながら、赤裸々な姿のまま生きる事に抵抗や恥を感じる人間の姿が描かれた。
そしてその男の前には、愛と誠の衣裳をまとって内面の弱さを隠しながら生きることを求める、一人の女がいたのである。
最近のスーパーでは、一蔓ずつばらばらにされた桜桃がパック詰めで売られているが、桜桃の特徴はもともといくつかの赤い実が蔓で繋がっている姿にある。それを更に「蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は珊瑚の首飾のように見えるだろう」。しかし、いったんからまった鎖は「少しでも動くと、血が噴き出す」のである。桜桃は、世間が求め、世間で評価され、かつ自分自身もそれにあこがれる美しい夫婦愛や家族愛の象徴である。しかし、男は、それを素直に受け入れ、それに安住することができず、逆にそれは男を追い詰め、死に誘うのである。そしてその男の憂鬱をまぎらわせ、ひと時の救いを与えてくれるのは、家庭という日常から離れた飲み屋の「ばかに綺麗な縞」の着物を着た女であった。
「子どもより親が大事」と虚勢のように呟く男は、家族の期待にこたえ、家族愛に浸ることよりも、一人の芸術家として死ぬ事を願っていた。苦しみからの救済ではなく、罪への審判が下されることを待っていた。そして、それがかなえられなければ、その罰を自ら下すために死を選ぶ他はなく、その道連れは、神の白でも家族愛の赤でもない、虚構の世界の象徴であるきれいな縞の衣裳をまとった女だったのかも知れない。
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