Top Pageへ戻る

京都新聞シリーズ  「チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像」
1949年京都市生まれのアイヌで、駄菓子屋を営むアイヌ史研究家のチュプチセコルさんをナビゲーターにし、日本の文化の中に潜むアイヌの歴史を探るシリーズ。
2001年1月13日から8月4日まで、毎週土曜日に連載。「記事の要約」は、下の見出しをクリックしてご覧ください。

目  次
   民族衣装アットゥシ/いなせな銀平が羽織る
   にしんそば、芋棒の起源/近代化支えた労働力
   風雅って何?/心花にあらざる時は
   風雅って何?2/エゾにもこんな松の月
   風雅って何?B/こさ吹かば曇りもぞする
   風雅って何?C/「上方風なる女」と遭遇
   義経号と弁慶号/過酷な政策を正当化
   入夷伝説の広がり/義経は北へ、為朝は南へ
   探検される存在だった?/南極観測史上に足跡
10    「君の名は」の少女ユミ/恋に満ちた桃源郷のイメージ
11    三白眼は物語る/画人・波響の政治的演出
12    弦楽器トンコリ/民族の悲しみたたえ
13    弦楽器トンコリ 2 /21世紀に響く優しい音色
14    鳥追い歌で厄介払い/絵皿の地図イメージ
15    ムックリを弾く女性/歴史をつなぐコンブロード
16    松前ずし、お持ち帰り/ナマコの目と海洋世界
17     5つの爪を持った竜/ラストエンペラーも着た
18     広がる蝦夷模様/祇園祭りの山鉾飾る
19     鬼門山に小法師さま/コロボックル物語の疑問
20     いたずら好きの神様/時に人間を悩ませる
21     「春を告げる鳥」の笛/作られた野蛮とメルヘン
22     北原白秋の「アイヌの子」/イロハを学ぶつらさ
23     花の様に美しく/身の回りにあふれるイメージ
24      ラッコと北方認識/未知の生き物だった
25      チェーホフのまなざし/流刑地サハリン島へ
26      平賀源内と博覧会/知的好奇心の行方
27      ナコルル リムルル/まかり通る「幽霊語」
28      反逆者のポジション/天竺徳兵衛は悪党か?
29      弁財船の光と影/暴力と収奪の象徴
30      河鍋暁斎の絵馬/より良い関係を
分類表に戻る   /  N411アイヌ民族・北海道に戻る
特集のお蔵「人と自然の棚」へもどうぞ

元の記事は下のホームページで検索してください

京都新聞社 京都新聞 Internet News

ページのはじめに戻る



























京都 2001/01/13 朝刊 19 No .N411k010113m19
京都市 駄菓子屋 52 チュプチセコル
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 @
見出し:
民族衣装アットゥシ/いなせな銀平が羽織る
メモ :
歌舞伎の名作「義経千本桜」に登場する船宿の主「渡海屋銀平」は、西国航路の船頭たちの頭領格と思しき人物。彼が羽織っているのは厚司(あつし)。
アイヌ民族衣装のアットゥシである。

チュプチセコルさん
「江戸時代に昆布、身欠きにしん、棒だらなど蝦夷地の産物を関西方面に運んだ北前船の船頭たちが実際に着ていたのです。理由の第一は機能性。保温と吸湿に優れ、水を相手の仕事にぴったりだった。」

「船頭達がアットゥシを着ることは、はるばる蝦夷地へ乗り込んでいった彼らの『栄光』と結びついている。北方の『不思議な所』の衣服として珍重され、力強さの象徴のようにも考えられていた。」

目次に戻る




























京都 2001/01/20 朝刊 19 No .N411k010120m19
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 A
見出し:
にしんそば、芋棒の起源/近代化支えた労働力
メモ :
京都名物のにしんそば。硬く乾燥した棒だらを水で戻し、エビイモと炊き合わせる芋棒も名高い京料理。
どちらも蝦夷地の海の幸を保存食として取り寄せ、京風の調理法で完成させたものだ。

棒鱈は、昔は『蝦夷鱈』と書いた。
松前藩が17世紀ごろ確立した「場所請負制」のもと、和人商人らは暴利をむさぼり、対等の交易相手であるべき先住民族のアイヌの人々を、本州からの出稼ぎ労働者たちの最底辺に組み込んだ。

チュプチセコルさん
「無賃の強制労働。奴隷に近い状態だった。その様子を幕末の旅行家松浦武四郎は『近世蝦夷人物誌』に書き残しています。」
「肥料としてのニシンは高価なもので『金肥』とも呼ばれ、これが大量に導入されることによって。木綿の量産化が初めて可能になった。こうした江戸期日本の近代化の陰には、北のアイヌに強いられた苛酷な労働があったのです。」

目次に戻る



























京都 2001/01/27 朝刊 17 No .N411k010127m17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 B
見出し:
風雅って何?/心花にあらざる時は
メモ :
松尾芭蕉が関西方面への吟行を綴った「笈の小文(おいのこぶみ)」は没後15年の1709年に刊行された。
その冒頭部部分で芭蕉は「像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり」
つまり、風雅とは無縁の夷狄(野蛮人)や鳥獣の境涯を抜け出し、造化(天地自然)の道に就けと説いている。

「笈の小文」の刊行40年前の1669年、芭蕉20歳の頃、蝦夷地でアイヌ最大規模の和人に対する武力抵抗があったが、松前藩は和解の席でアイヌの指導者シャクシャインを謀殺した。

チュプチセコルさん
「芭蕉は中国の話しをしているのではありません。西行や利休を引き合いに、日本文化を語っている。その文脈上、『夷狄』はアイヌを指すと見るのが自然。アイヌは花鳥風月を解さないと、芭蕉は言うのです。」

目次に戻る




























京都 2001/02/03 朝刊 19 No .N411k010203m19
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 C
見出し:
風雅って何?2/エゾにもこんな松の月
メモ :
1980年の小林一茶の句「芭蕉忌やエゾにもこんな松の月」
ロシア船の来航など、外圧の激動に見まわれた江戸後期の一茶。

チュプチセコルさん
「海外事情に興味津々の彼は、やがて和人の商人らによるアイヌ搾取の実態を情報収集し、『商人やうそうつしに蝦夷が島』など、痛烈な告発の句も作る。芭蕉にはなかった意識です。」

とはいえ、一茶の「良心ある転向」は、明治維新後も日本人の共通認識にならなかった。
むしろ国策は、アイヌから言語さえもうばい「日本人化」を進めた。
大正期に詩才をきらめかせたアイヌの少女・知里幸恵は、口伝えの古謡13編を編訳。
その「アイヌ神謡集」の序文は痛切だ。

「愛する私たちの先祖が(中略)用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか」

「アイヌ神謡集」完成直後、幸恵は19才の若さで病死した。
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」の一節で始まる同書は岩波文庫で読める。
残念なことに、アイヌ語の「風雅」を解する日本人は昔も今も少ない。

目次に戻る




























京都 2001/02/10 朝刊 23 No .N411k010210m23
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 D
見出し:
風雅って何?B/こさ吹かば曇りもぞする
メモ :
小林一茶の「芭蕉忌やエゾにもこんな松の月」について、チュプチセコルさんは、『笈の小文』で松尾芭蕉が表明したアイヌ蔑視感を受け継いだ句と解釈したが、正反対の見方もできそうな気がする。

チュプチセコルさん
「『芭蕉忌や』はあくまでも追善の句です。一茶はこの句を作ったことで、初めて芭蕉の持つ差別的な視点に気付いたのかもしれませんね。実は、一茶の句のもとになった一つの和歌がある。芭蕉が崇拝していた西行の、アイヌ語混じりの歌です。」

『こさ吹かば曇りもぞするみちのくの蝦夷には見せじ秋の夜の月』ー。
菅原道真の『東風吹かば』ではなく、『胡沙(こさ)吹かば』である。
胡沙とは、蝦夷の人々が吐き出すと信じられていた魔法の霧のこと。
それを吹きかけて病魔を退散させるというアイヌ神話がもとになっているようだ。
アイヌ語学者・金田一京助の研究によると、アイヌ語「フッサ」(息吹の意味)が日本語化したとされる。
古代の北陸や東北地方の住民は「蝦夷(えみし)」と読まれ、近世に進むにつれ「えぞ=アイヌ」の図式がはっきりしてくる。
西行の「アイヌ語混じりの歌」には、東北地方のアイヌに対する恐れ、神秘、さげすみなどの気分が混じっているようだ。

チュプチセコルさん
「秋の夜、陸奥の『えぞ』たちが月を見て、この魔法で曇らすのは心配だ、彼らに月は見せまいという、少々冗談めかした歌なのでしょう」

目次に戻る




























京都 2001/02/17 朝刊 15 No .N411k010217m15
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 E
見出し:
風雅って何?C/「上方風なる女」と遭遇
メモ :
1684年に井原西鶴によって書かれた「好色二代男」では、蝦夷地への奇妙な旅が描かれている。「心の友」と呼び合う三人組みが色町に飽きて今の北海道にはいる。
大阪の人、西鶴は、北前船が蝦夷地から持ち帰る風聞などから、想像力を存分に働かせたようだ。
江戸幕府は、18世紀末から内国化を図り、1804年には有珠、様似、厚岸の三ヵ所に「官寺」を設置した。
有珠の善光寺もその一つだが、創建はずっと古かったことが「好色二代男」から分かる。

1811年 「御仏やエゾが島にも御誕生」
1812年 「花さけや仏法わたるエゾが島」
などの句がある一茶が
「来て見ればこちが鬼也蝦夷が島」
と気付くのは、1822年のことだった。

チュプチセコルさん
「前人未到の大自然を踏み分け、いきなり上方風の女に出会うという設定は、その辺りに住むアイヌを人とは見ない認識の現われでしょうか。
それはともかく、臼(有珠)の善光寺が出てくるのは興味深い。
これら三官寺がアイヌを『教化』し『文明化』してゆくのはめでたいと、小林一茶は一時期考えていた。」

目次に戻る




























京都 2001/02/24 朝刊 17 No .N411k010224m17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 F
見出し:
義経号と弁慶号/過酷な政策を正当化
メモ :
北海道を走った初めての蒸気機関車は、絵本や人形の劇にもなっている「義経号」と「弁慶号」。1880年に開通した幌内鉄道で石炭輸送などに活躍した。その最上等客車の両側面には、縦書きで「開拓使」と記されていた。

明治初期の官庁・開拓使は、アメリカンスタイルの北海道開拓を目指し、幌内鉄道をアメリカ人技師の指導で実現。その一方で、先住民族アイヌから土地や生業を奪うなど、過酷な政策をとった。これも、西部開拓史を思い起こさせる。
道内初のSLがなぜ「義経号」と「弁慶号」なのか。
今も北海道には弁慶岬などの地名、弁慶ゆかりの岩やお堂や土俵跡が残る。

チュプチセコルさん
「義経は実は生き延びて蝦夷地へ渡ったという室町時代の御伽草子の逸話があった。その伝説は、17世紀のシャクシャインの戦争(アイヌの武装抵抗)など子とあるごとに持ち出され、アイヌ支配を正当化する政治手段に使われたのです。」
「実在さえ疑われる弁慶を地名に使ったばかりか、オキクルミやサマイクルなどと呼ばれるアイヌの創世神・文化神の神話を義経主従の故事にすりかえるなど、アイヌの精神生活にまで立ち入った『価値の破壊』が巧妙に仕組まれた。
その後、義経は大陸に渡ったという伝説も生み出され、清国の清は清和源氏の清だとして、旧満州支配にも利用されていった。」

目次に戻る



























京都 2001/03/03 朝刊 19 No .N411k010303m19
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 G
見出し:
入夷伝説の広がり/義経は北へ、為朝は南へ
メモ :
室町時代のおとぎ話「御曹子島渡(おんぞうししまわたり)」に代表される入夷(にゅうい)伝説がある。源義経が蝦夷地へ渡り秘宝を持ち帰ったとか、アイヌの英雄神になったというフィクションには、江戸時代の戯作者も飛びついた。

1788年に恋川春町が書いた黄表紙「悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)」では、義経は奥州藤原氏が掘った地下トンネルを抜け、あっという間に蝦夷地に入り、蝦夷人(アイヌ)が身にまとう分厚い昆布のよろいに煮汁をかけてフニャフニャにし、奥蝦夷の大王が数の子で築いた城壁も水鉄砲で難なく攻め落としてしまったとある。

チュプチセコルさん
「この後、義経は昆布や数の子の密貿易で大もうけ。雲に乗って鎌倉へ帰っていく。相当インチキな空想ながら、江戸期の北前船交易の実態を映し出した点は興味深い。商才にたけた義経というのも、入夷伝説の中で異色の存在でしょう」
「滝沢馬琴が『椿説弓張月』に描いた、源為朝が琉球へ渡った伝説も同じ根を持つといえるでしょう」

明治前期「義経号」と「弁慶号」に続いて北海道に輸入された同型の米国製機関車は「比羅夫号」「信広号」。阿倍比羅夫は7世紀に蝦夷を「征伐」した武将、武田信玄は蝦夷地を支配した松前藩の先祖だ。

兵庫県三木市の夷神社本殿に、源為朝が「琉球の魔王」を討つ場面を描いた絵馬が飾られている。この奇想天外な絵が奉納されたのは、沖縄復帰の前年の1971年である。

目次に戻る




























京都 2001/03/10 朝刊 18 No .N411k010310m18
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 H
見出し:
探検される存在だった?/南極観測史上に足跡
メモ :
滋賀県湖東町に「西堀栄三郎記念 探検の殿堂」という博物館がある。第一次南極越冬隊長(1957-58)の西堀さんは有名な山男の歌「雪山讃歌」の作詞者。「探検の殿堂」の二階の日本の探検か50人の肖像の中に、「語学的探検の草分け」としてアイヌ語学者・金田一京助の絵もある。

1926年白瀬のぶによる日本人初の南極探検には樺太犬の世話係として山辺安之助と花守信吉が参加し、犬ぞり技術を駆使し、アザラシなどを撃って食料を補った。
かつて、樺太アイヌは樺太犬に犬そぞりを引かせて生活、北海道アイヌは北海道犬を主に猟犬として使った。

チュプチセコルさん
「やはりアイヌは『探検される存在』だったのでしょう。」
「北海道犬は昔アイヌ犬とも呼ばれたが、さらに古い名はアイヌ語でセタ。樺太犬もセタだった。種類の差はどうあれ、生活の場に密着した言葉だったのです。産地の名前を尊重しセタと呼んでほしいと私は思うのですが」

目次に戻る

































京都 2001/03/17 朝刊 19 No .N411k010317m19
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 I
見出し:
「君の名は」の少女ユミ/恋に満ちた桃源郷のイメージ
メモ :
1953年に菊田一夫さん原作のラジオドラマを映画化した「君の名は」は戦後を代表するメロドラマ。
その主題歌「黒百合の歌」は、ヒロインの真知子のもとを去り北海道へ渡った春樹と親しくなる、アイヌ娘の情熱的な性格を表現したものだ。
作詞の菊田一夫、作曲の古関裕而コンビは1950年の「イヨマンテの夜」(イヨマンテはヒグマの霊魂を神の国へ送り返すアイヌの宗教儀式)も手がけ、古関裕而は巨人・阪神の応援歌と共に1961年の「モスラの歌」も作曲した。

チュプチセコルさん
「『イヨマンテ』も『黒百合』も、歌詞はアイヌ文化とほとんど無関係で、恋やくちづけを強調した内容。原始的で奔放な恋に満ちた桃源郷といったイメージが思い描かれている。曲のリズムも、後の『モスラ』の未開イメージにそっくり受け継がれた。」
「重要な脇役であるアイヌの少女ユミは、自ら男に抱き付き、『好きだ』とこくはくしたりする。今の常識ではどうってことないのですが、日本映画は当時、ガラス越しのキスシーンだけで大評判になった時代。この扇情的な女性描写は、ヨーロッパの支配者が植民地の人々に向けたまなざしそっくりだと思います」

目次に戻る






























京都 2001/03/21 朝刊 19 No .N411k010324m19
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 J
見出し:
三白眼は物語る/画人・波響の政治的演出
メモ :
フランスのブザンソン美術館に蠣崎波響(かきざきはきょう)の1790年の作品「夷酋(いしゅう)列像」がある。中国の細密画の影響で華麗に描かれた12人のアイヌの有力者たちは、ごく菜食の衣装をまとい堂々たる武者ぶりだが、、皆瞳が上目遣いなのは奇異な印象を受ける。また、彼ら本来の衣服ではない中国産の豪華な蝦夷錦や、ロシア製の赤いコートを着せられている。

1789年、クナシリ・メナシ(国後島根室付近)の若いアイヌらが本州からの出稼ぎ商人飛騨屋の搾取や暴行に怒り蜂起。松前藩は鎮圧軍を送った。
アイヌの長老ツキノエ、ションコらは若者らを説得し情状酌量を求めて同行したが、松前藩は37人を処刑してしまった。

松前藩首の子で、後に家老も務めた蠣崎波響が描いたのは苦渋の和睦を願い出た長老たちの姿だった。
この事件で幕府は松前藩には統治能力無しと断定して直轄化を進め、1908年、松前藩を陸奥梁川へ移封した。

チュプチセコルさん
「この三白眼は、当時の絵画の常識では、異国人ひいては囚人やさらし首の罪人を表現したもの」
「失地回復が波響の悲願となる。松前藩こそ蝦夷地のアイヌの市は医者だと誇示するため、『夷酋列像』を幕府や朝廷に見せて回った。けれどここに描かれたアイヌは、処刑された若者の親や親戚たち。その苦しみや悲しみという、人間にとって大事なものがこの絵には見えません」
「ロシア船の北方来航に幕府は危機感を抱いていた。松前藩は『ふていのアイヌ』がロシアなどとつるんでおり、それを藩が取り締まっていると演出したのです」

目次に戻る




























京都 2001/03/31 朝刊 17 No .N411k010331m17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 K
見出し:
弦楽器トンコリ/民族の悲しみたたえ
メモ :
アイヌ民族伝統の竪琴トンコリは、とど松の一木をくり貫き、五弦を張ったものが多い。西洋のハープにも似た音色は優美で、時に激しくうねる。

山形県の新庄ふるさと歴史センターに、幕臣とも見られる長嶋忠親作の掛け軸がある。イトカラアイノという名のアイヌ青年がトンコリを弾く姿を描いている。

1789年、フランス革命の年に蝦夷地で起きたクナシリ・メナシの戦いのとき、イトカラアイノは松前藩の支配が及んでいなかった、エトロフ、ウルップ方面に父親の長老ツキノエと漁に出ていた。
漁から帰ったツキノエらは和平の道を探ったが、松前藩は実行者37人を処刑。

チュプチセコルさん
「ツキノエの息子セッパヤも殺された。イトカラアイノはセッパヤの弟。彼のトンコリの調べは、兄を失った悲しみをたたえていたでしょう」
「事件の原因を作った飛騨屋は蝦夷地を追放されたが、代わって進出した阿部屋や栖原(すはら)屋は搾取一層強め、アイヌの暮らしを破壊していった。」

言語学者・知里真志保の研究によると、そのころスワラ・ノチワ(宵の明星)というアイヌ語ができた。原義は栖原の星。栖原屋が国後島や利尻島の漁場で、星の瞬く夜更けまでアイヌ労働者をを酷使したことが語源という。
商人は江戸などで需要が高まる材木を切り出す労働の最底辺にアイヌを組み込んだ。

幕末の旅行家・松浦式四郎は、告発の書「近世蝦夷地人物誌」に、和人による性暴力も横行する状況をアオタコタン(地獄)行きに等しいと記録している。

目次に戻る






























京都 2001/04/07 朝刊 17 No .N411k010407m17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 L
見出し:
弦楽器トンコリ 2 /21世紀に響く優しい音色
メモ :
「北海道」の命名者でもある松浦式四郎がアイヌ迫害の実態をえぐった「近世蝦夷人物誌」は長らく発禁にされており、活字になったのは、彼の死後20数年たった明治45(1912)年だった。
樺太を訪れた式四郎は、強制労働にあえぐ若者たちの中で、アイヌの老人オノワンクと出会った。オノワンクは民族の不遇を嘆き、古来の楽曲を後世に残そうとトンコリを切々と鳴らした。

「雨月物語」の作者である上田秋成が、死の前年1808年に描いたとされる自画像がある。
落書に似た賛「米ほしや綿ほしや……」は「蝦夷はやりうた新章」と題され。座像の秋成がトンコリを弾いている。

チュプチセコルさん
「このざれ歌は、1807年にロシア船がエトロフ島の日本人施設を襲撃した事件で慌てふためいた武士たちを冷やかす内容。反骨の人・秋成が悦にいった感じ。トンコリはこの歌の味付けでしょう」

21世紀最初の春、滋賀県の「栗東芸術文化会館さきら」で、トンコリ演奏者OKI(加納沖)さんが演奏した。

「加納さんも、伝統音楽継承や楽器制作に努めるウタリ(同胞)たちも、それぞれのやり方でアイデンティティーを確認している。本来トンコリは独創楽器ですが、関東ウタリ会では4,5人の合奏という新しい形も試みています」


目次に戻る




























京都 2001/04/14 朝刊 19 No .N411k010414m19
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 M
見出し:
鳥追い歌で厄介払い/絵皿の地図イメージ
メモ :
大津市歴史博物館に、美しいコバルトブルー地に、江戸後期の日本地図が映える伊万里焼の絵皿がある。
京・近江を中心とし、日本列島に琉球、朝鮮、八丈島などを配置。小人国、女護国など架空の島々も扇形の皿の周辺部に張り付いている。エゾカシマ(蝦夷が島・北海道)も、架空の島々に似た位置付け。

近世屈指の旅人で、膨大な地誌や遊覧記を書き残した菅江真澄はm1786年の岩手方面へのたびをつづった「かすむ駒形」んみ、この地方の人々が小正月に唱える鳥追い歌を記録している。
「早稲鳥(わせどり)ほいほい、おく鳥もほいほい、ものをくふ鳥は頭わって塩せて、遠島さへ追て遣(や)れ、遠しまが近かからば、蝦夷が島さへ追てやれ」
残酷な表現もちりばめながら、田畑を食い荒らす害鳥を蝦夷地へ厄介払いするおまじないだ。

チュプチセコルさん
「こういう飾り皿のほか、食器として使った地図文様の絵皿も、京都の古道具屋で目にします」
「伊能忠敬らの実測日本地図は江戸期の国家機密。でも絵皿の地図は、普通の人々の目にも触れたはず。刺し身か何か盛りつけて楽しみつつ、蝦夷地に住むアイヌのことなど、自由なイメージを膨らませていたのでしょう」
「自分たちに都合の悪いものはよその土地へ、という発想。これは現代にも通じる話なのでは?」


目次に戻る





























京都 2001/04/21 朝刊 17 No .N411k010421m17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 N
見出し:
ムックリを弾く女性/歴史をつなぐコンブロード
メモ :
山崎豊子さんの小説「暖簾」のモデルとなった小倉屋山本は、作者の兄が三代目を継いだ大阪市の老舗昆布商。1949年に発売した「えびすめ」は、北海道・道南の最高級マコンブの真ん中だけを3cm角ほどの正方形にした乾燥塩昆布1984年に農林大臣賞を受賞した人気食品。
黄色い包装紙は、ムックリ(竹製の口琴)を弾くアイヌ女性の姿を描き、縁にアイヌ文様もあしらっている。

小倉屋山本の創業150年記念誌「なにわの昆布の物語」(1998年発行)は、蝦夷地から大阪、さらに昆布料理を発展させた沖縄へ至るコンブロードの歴史に注目。
「昆布」という文字が日本の文献に初めて現れるのは8世紀の「続日本紀」で、「蝦夷須賀君古麻比留」という人物らが朝廷に昆布を献上し続けているという715年の記述。

チュプチセコルさん
「平安時代の『倭名類聚鈔』などによると、昆布はコンブ、ヒロメ、エビスメと三通りに読まれた。メはワカメのメ、食用の海藻の事。エビス(蝦夷)の人々が国に納めたメがエビスメなのです」
「昆布も含め、俵物(干しナマコ、干しあわび、フカヒレなどの海産物)の多くは蝦夷地から北前船で上方へもたらされた。『えびすめ』の包装紙に限らず、江戸時代から昆布店の看板や店先にはアイヌが昆布漁をする就労風景などが象徴的に描かれてきた。遠い産地とのつながり、その貴重さや高級感を示して商売に役立てたのです」


目次に戻る