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京都新聞シリーズ「チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像」   16-30回
1949年京都市生まれのアイヌで、駄菓子屋を営むアイヌ史研究家のチュプチセコルさんをナビゲーターにし、日本の文化の中に潜むアイヌの歴史を探るシリーズ。
2001年1月13日から8月4日まで、毎週土曜日に連載。




































京都 2001/04/28 朝刊 17 No .N411k010428km17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像  O
見出し:
松前ずし、お持ち帰り/ナマコの目と海洋世界
メモ :
大阪の黒門市場のすし屋では、薄切りの鯖を使ったエコノミークラスがバッテラ。鯖の片身を分厚くどんとのせれば、松前ずし。
鋭利な刃物で昆布を極薄に削り取って作るおぼろ昆布。最後に削り残した昆布の薄片を松前ずし・バッテラの外皮に使う。
昆布の塩気が防腐作用を果たし、ねたや米ともよくなじむ。

チュプチセコルさん
「大阪のバッテラ(鯖の棒ずし)は、竹の皮にくるみ『松前寿司』という短冊を付けて売られた。蝦夷地(えぞち)の松前からきた昆布をねたの鯖にかぶせることから、そう呼んだのでしょう」
「近松門左衛門が劇中のお堅い人物を昆布のようなと例えたり、正月の鏡餅の下に昆布を垂らすなど、上方の生活文化は昔から蝦夷地と密接につながっていたのです。」

江戸期の蝦夷地でアイヌが採取した昆布やナマコ(いりこ)は中国大陸でも珍重された。
ナマコの場合は、ミクロネシア、オセアニアや東南アジアからも、中国の巨大市場へ吸い上げられた。

ナマコの歴史を解明した鶴見良行さんは、著書「ナマコの眼」(ちくま文庫)で、広い海洋世界の一角にアイヌを位置付け、ナマコ流通経済の末端の搾取に注視。
「ナマコを追ってずいぶん歩いてきたが、その漁業労働でもっとも非道な仕打ちを受けたのはアイヌの人々であり、多分それに次ぐのは南太平洋の島民である」


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京都 2001/05/05 朝刊 13 No .N411k010505m13
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 P
見出し:
5つの爪を持った竜/ラストエンペラーも着た
メモ :
幕末、明治と活躍した“最後の浮世絵師“月岡芳年は、血みどろの戊辰戦争の現場を写生して歩き、その残酷なまで人間を凝視する目を、武者絵や怪奇絵の世界にも昇華させた。また、豪華な歌舞伎役者の絵も多く残した。
役者絵の一枚、「博多小女郎浪枕」(作・近松門左衛門)で海賊のボス毛剃九衛門(けぞり・くえもん)にふんした九代目市川団十郎の錦絵は、堂々たる風格とエキゾチシズムを漂わせる。
満月を背に、ぐうっと沖を見据える、汐見の見得(しおみのみえ)の名場面である。
毛剃九衛門の衣装に、五つのつめを持った竜と、それを取り巻く瑞雲(ずいうん)が描かれている。
この模様のルーツは、中国の皇帝が着た最高級絹織物の御衣。
日本へは北回りで輸入されたことから、蝦夷錦(えぞにしき)と呼ばれた。
大陸との北方交易で蝦夷錦を入手したのは、主に樺太アイヌたちだった。
江戸期の探検家・最上徳内の「蝦夷草紙」によれば、蝦夷錦の代価を支払いきれないアイヌたちは、アムール川流域などで、交易相手の諸民族に身売りされることさえあったという。

チュプチセコルさん
「京都の西陣織といえども、複雑な刺繍を凝らした絹織物を完成するのは幕末。
それ以前、中国と張り合える絹織物は日本にない。
中国産の蝦夷錦は珍重され、江戸や上方で有力者に献上されたり、歌舞伎の衣装にも使われたのです。」

「とても高価なので、アイヌが手に入れる枚数は限られていた。
ところが、その利潤に目をつけた松前藩は、大量の買い付けをアイヌに強要するようになった。」

「借財のかたに人質同然、家内労働者となったり、交易のため自ら移り住むものもいた。その地に今もクイサリ(アイヌの子孫)と呼ばれる人々が住んでいる。
ラストエンペラー溥儀も着た蝦夷錦は、相当な人的犠牲を払わなければ得られない品物だったのです」

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京都 2001/05/12 朝刊 19 No .N411k010512m19
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像  Q  
見出し:
広がる蝦夷模様/祇園祭りの山鉾飾る
メモ :
探検家間宮林蔵らは1808年、当時は地続きと信じられていたサハリン島と大陸の間に、細長い海峡の存在を確認した。が、その間宮海峡発見のはるか以前から、アイヌ達は大陸へ自由に渡航し交易をしている。彼らが大陸から持ちかえった絹織物の蝦夷錦は、竜と瑞雲のあでやかなデザインで、京や江戸の人々の目を奪った。
京都の夏をにぎわす祇園祭には毎年、豪華な蝦夷錦で飾った山鉾(やまほこ)も繰り出す。
江戸後期には、蝦夷錦の竜と瑞雲の文様を日本風にアレンジしたものを「蝦夷文様」と呼んだ。
蝦夷錦は、大きな寺院で仏壇を装飾する打敷(うちし=布製の敷物)にも使われ、今日に至っている。

チュプチセコルさん
「菊水鉾をはじめ、江戸時代にはかなりの数の山鉾を蝦夷錦が飾っていた。祭りを華やかに演出するものが蝦夷錦だったのです」
「蝦夷錦の山鉾は何度も火災で焼失し数少なくなったが、戦後に復元された例もある。町衆のそんな努力が、今も祇園祭の活力を支えている」
「歌舞伎や文楽人形の衣装ばかりか、町人の間でも蝦夷錦を着るのが流行した。
花魁(おいらん)の着物にも蝦夷錦や蝦夷文様。
その姿は、喜多川歌麿の浮世絵や、左官職人・吉田亀五郎が漆喰(しっくい)でこしらえた鏝絵(こてえ)にも描かれた」

アイヌの北方交易が江戸期日本にもたらしたもう一つの貴重品は、丸いガラス製の青玉(蝦夷玉)だった。

チュプチセコルさん
「アイヌ社会では、神に対する礼儀として女性が身に着ける首飾りの青玉。当時の日本には青玉を作る技術がなかったこともあり、日本人はステータスの象徴として印籠(いんろう)にぶら下げたり、風鎮(掛け軸のおもりの玉)などに使ったのです」

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京都 2001/05/19 朝刊 No .N411k010519m17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像  R  
見出し:
鬼門山に小法師さま/コロボックル物語の疑問
メモ :
児童文学者・佐藤さとるさんの「コロボックル物語」五部作や関連の短編集は、戦後日本を代表するファンタジー作品として長く読み継がれている。

第一作は1959年出版の「だれも知らない小さな国」。主人公の「せいたかさん」は、「鬼門山」という小山に伝わる「こぼし(小法師)さま」伝説に魅せられ、やがて身辺に不思議な小人たちの気配を感じ始める。彼らこそアイヌ伝承世界のコロボックル(ふきの葉の下の小さな神様)に違いないと確信。「コロボックル小国」を守るため、小山を買い取ろうと決心する。

せいたかさんを信頼できる友と見込んで、ようやく姿をあらわした小人たち。せいたかさんが「君たちの先祖がコロボックルだという事はほとんど間違いないな」というと、小人は「ワシラノ ゴセンゾハ 『スクナヒコサマ』ダヨ」と答える。
記紀神話などに出てくる小彦名神(すくなひこなのかみ)のことだ。

コロボックル物語と銘打ちながら、このシリーズにはアイヌがまったく登場しない。主人公が字引でコロボックルの意味を調べる場面はあり、アイヌ民族楽器・ムックリに関する知識も図解つきで書かれているのだが。

チェプチセコルさん
「なぜ、忌み嫌われる丑寅(うしとら=鬼門)の方角に小山を設定したり、コロボックルを単一民族神話に取り込んだりしたのでしょう?」
「現実に生きているアイヌ民族の姿がまったく出てこないので、多くの読者はコロボックルがアイヌの神様であることさえ忘れてしまっているでしょう。
なぞめいた小人の国、躍動する話の展開、かわいらしい挿絵などにひかれるファンが全国に何万といるはずですが、この童話はまるでアイヌが滅びた幻の民族だと言っているかのようです」

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京都 2001/05/26 朝刊 20 No .N411k010526m20
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 S
見出し:
いたずら好きの神様/時に人間を悩ませる
メモ :
声はすれど、なかなか姿を見せない小人の神様。食べ物などを分け与えてくれる一方、いたずら好きが度を越し、人間たちを悩ませる…。そんなアイヌ伝説のコロボックル(コロポックル、コロボックンクル)を、戦前から多くの文学者が取り上げてきた。

宮本百合子の小説「風に乗ってくるコロポックル」(1918年)は、主人公のアイヌ男性が、「内地人」の養子や隣人に財産をゆすり取られ、それをコロボックルに出会った災難としてあきらめようとする切ない物語。
近代アイヌ民族の苦悩が象徴されている。

雑誌「コドモノクニ」(1941年7月号)に乗った詩人・巽聖歌の「コロポックル」は、子ども好きのこの神様が、大人のアイヌから受けた意地悪に怒り、どこかへ行ってしまったという詩だ。

宇野浩二の童話「ふきの下の神様」(1922年)は、 「人が禁を破ってその姿を見ると、コロボックルは村からいなくなるという伝承がとんでもない方向に展開した例」
怠け者のアイヌ男性クシベシがコロボックルを捕まえ、一生暮らせる分の食料や着物を要求するなどふらちな言動を繰り返す。腹を立てたコロボックルは、戒めに薪や野菜や魚をクシベシから取り上げて死に追いやり、村から姿を消した。
「アイヌが段々滅びてきまして、年々に数が少なくなり、今ではもうほとんどなくなりさうな有り様ださうです」というお話だ。

チェプチセコルさん
「個人や村ではなく、民族全体が滅びてしまう設定。しまもそれは、アイヌ自身が悪いから勝手に内部崩壊した、日本人は何ら手を下していないという考えに基づいている。
滅びゆくアイヌ≠ニいうイメージや語り口は、戦後も物語りや映像の世界で繰り返され、日本人の無意識の領域まで入り込んでしまった」


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京都 2001/06/02 朝刊 23
No .N411k010602m23
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像  21
見出し:
「春を告げる鳥」の笛/作られた野蛮とメルヘン
メモ :
宇野浩二の童話「春を告げる鳥」(1927年)。アイヌの「酋長」が一人息子に山小屋で断食修行をさせ、「今にお前も戦争に出て、敵の首をいくつとなく、腰にぶら下げて、手柄をしなければならぬのだ」と諭す。
草の葉の笛を吹くのが上手な色白の息子は、苦行に耐え切れず死んでしまい、小鳥に生まれ変わって幸せそうにさえずり続けた…。
昭和初期に出た「春を告げる鳥」の表紙にラッパ状の笛を吹く子が描いてある。衣装の模様はどことなくアイヌ風だが、全体に西欧のメルヘンタッチの絵だ。

児童文学者・古田足日さんの代表作「宿題ひきうけ株式会社」(1966年)には、「春を告げる鳥」を読んだ小学生と教員が「むかしはやばんだったんだ」と話し合う場面が出てくる。(アイヌの指摘を受け、1996年忍者の話しに書き改めた)

チェプチセコルさん
「戦場で敵の首を切るのは日本の戦国武将で、アイヌが首狩りをした記録はない。作られた野蛮イメージと言えます。断食修行は仏教からの連想でしょうが、これもアイヌの習慣ではないのです」

「笛の好きなアイヌ少年を、当時流行のアールデコやアールヌーボー風にデフォルメしたのでしょう。こういう表現は、アイヌの実像や文化を消し去る形で、戦後の佐藤さとるさんお『コロボックル物語』にも受け継がれていった」

「(表紙の笛は)ネシコニカリップ(クルミの木の皮を巻いたアイヌ伝統の笛)から連想して描いた」

「今や現存しませんが、江戸期の絵を見るとやはりラッパ状。日本人は胡沙笛(こさぶえ)と呼んだ。司馬遼太郎さんの短編『胡沙笛を吹く武士』(『新選組血風録』所収)では不吉な笛とされ、その武士は無残な死を遂げる。そんな作られたイメージじゃなく、ぜひアイヌ自身の手で復元して音を出してみたい」


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京都 2001/06/09 朝刊 No .N411k010609m19
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像  22
見出し:
北原白秋の「アイヌの子」/イロハを学ぶつらさ
メモ :
大正から昭和にかけ鈴木三重吉が主催した童話・童謡雑誌「赤い鳥」。
1925年12月号に、北原白秋の「アイヌの子」が挿絵入りで載っている。
「大豆畠(だいずばたけ)のほそ道を、/ち(小)さいアイヌの/子がひとり。/いろはにほへと/ちりぬるを。/唐黍(とうきび)たべたべ、/おぼえてく。」

岩波文庫「日本童謡集」の索引によると、童謡「かなりや」で有名な成田為三が曲をつけているが、日本童謡協会や白秋童謡館でも、楽譜や音源の所在には心当たりがないという。

20世紀初頭のアイヌ児童たちは「旧土人児童教育課程」(1922年廃止)などによって、民族文化を否定され、国語や修身や軍歌を教え込まれていった。白秋の「アイヌの子」は単に叙景歌ではない。

チュプチセコルさん
「詩を読んで、かわいいな、けなげだなと感じた人もいるかもしれません。でも、明治以降の同化教育で、アイヌは強制的にアイヌ語を奪われたことを思い出してください。
『アイヌの子』は、つらい思いもしながら日本語のイロハを学ぶ姿だったはずです」
「ただ、歌の意味は何を訴えたいかで変わる。『アイヌの子』だって歌い方によっては、少数者の視点に立つプロテスト(異議申し立て)の歌にもなり得るでしょう」
「米国のスタンダード『我が心のジョージア』の原曲は、白人のホーギー・カーマイケルが作曲して歌った、ジョージアという女性へのラブソング。
その後、黒人のレイ・チャールズが歌い大ヒットした。彼は、同じ歌に被差別体験も含む、ふるさとジョージア州へのいろんな思いを込めた。こうして歌に深みと広がりが加わり、ジョージア州歌にもなったのです」


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京都 2001/06/16 朝刊 15 No .N411k010616m15
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像
見出し:
花の様に美しく/身の回りにあふれるイメージ
メモ :
アイヌ語で、花はノンノ(nonno)。ことし創刊30周年の人気ファッション雑誌「ノンノ」は、女性が花のように美しくあってほしいという願いを込めて名付けられた。
ノンノ編集部によると、1971年の創刊に当たり社内で誌名案を募集。意味、互換とも親しみやすく、先行のライバル誌「アンアン」に対するごろもよいということで「ノンノ」に決ったという。

放送中のNHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」で主題歌を歌う沖縄出身のデュオ「Kiroro(キロロ)」も、アイヌ語からの命名。小学生のころ北海道を旅したボーカルの玉城千春さん、耳に残ったアイヌ語のキロル(人間が踏み固めた広い道)キロロアン(強い、健やか、盛ん)から思いついたとか。

ところで全国のいたるところのラーメン店の名にも、カムイ(神)、コタン(村)といったアイヌ語がよく使われている。ラーメンといえば札幌、北海道といえばアイヌという発想…?

北海道、東北をはじめ、各地にアイヌ語が起源の地名が少なくない。が、興味本位にどこでもアイヌ語に結び付けるのは禁物。
言語学者の知里真志保は、著書「アイヌ語入門」(1956年)に「幽霊アイヌ語に用心せよ」という一章を設け、樺太も熊本もアイヌ語「クリモント」(実は存在しない単語)が語源だなどと「勝手な地名解釈をする人」を辛辣に批判している。

チュプチセコルさん
「ラーメンはアイヌの発明品ではないのですが、看板にアイヌ文様を使ったり、木彫りのアイヌ人形を置いた店もある。米国の古い西部劇で、町の雑貨店にインディアン(北米先住民)の等身大の木彫り人形が立っているのと同様、記号としてのアイヌイメージは私たちの身の回りにあふれているのです」
「ただ、店名の『カムイ』に、野蛮人を表す夷(イ)の字を当てている例などは気になりますね」


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京都 2001/06/23 朝刊 19 No .N411k010623m19
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像  24
見出し:
ラッコと北方認識/未知の生き物だった
メモ :
千島列島(クリール列島)や北海道のアイヌ、北米イヌイットらの生活に、ラッコの毛皮と肉は必需品だった。
「ラッコ」はアイヌ語だ。日本人は「猟虎」「海獺」などと書き、北方の未知の生き物として美しい毛皮を珍重した。蝦夷地の蠣崎氏が豊臣秀吉に、松前藩は徳川家康にラッコ皮を献上している。

18世紀以降、その毛皮は国益も絡みロシア、英国、米国、日本などが乱獲し、絶滅の危機に瀕した歴史を、ラッコ博士≠フニュースキャスター吉川美代子さんは著書「ラッコのいる海」に詳しく書いた。

井原西鶴の「一目玉鉾(ひとめたまぼこ)」は、絵地図双六のような名所案内。蝦夷地から海上百里の「蝋狐島(らつこしま)」は「荒波にして渡り 難 義 也」とある。

チュプチセコルさん
「ラッコを可愛いと思うのは現代人の感覚で、昔はそうでなかった。江戸後期の山東京伝は、盗賊の容貌をラッコの覆面やオットセイのまなざしにたとえている。荒々しい北の海の様相、アイヌへの偏見や恐れもあいまって、悪人イメージを北方の生き物で象徴したのです」

大正から昭和の初期の宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」の主人公ジョバンニは、ラッコ狩りに出かけたまま帰らない父親のことで友達からからかわれる。
北海道からの転校生「風の又三郎」を「あいつは外国人だな」とささやいた少年たちは「青白いらっこ」のように川底に潜って遊んだ」

チュプチセコルさん
「当時は防止や服の襟にラッコ皮を使うのが流行していた。その時代背景に加え、自ら北海道や樺太を旅した体験、西鶴や京伝にさかのぼる北方認識なども、宮沢賢治の頭の中でつながっているのでしょう」

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京都 2001/06/30 朝刊 17 No .N411k010630m17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 25
見出し:
チェーホフのまなざし/流刑地サハリン島へ
メモ :
ロシアの作家チェーホフが1890年、医師・文学者としてモスクワの名士だった30歳の時、特派員身分証を携えて当時の流刑地サハリンへ旅立ったのは、自らの精神的危機を救う苦行であったともいわれる。
約三ヶ月間、徒刑囚らの悲惨な処遇実態を調査し、後に膨大なドキュメント「サハリン島」を完成。
その中で、詳細な取材と文献記録をもとにギリヤーク人(ニブヒ)、樺太アイヌの歴史や現状を描いている。
「アイヌは死者の出た小屋は見捨てて、代りに別の小屋を新しいところに建てる」
「サハリンはアイヌの土地で、日本人の土地などサハリンにはない」
と、約40年前のアイヌ古老の発言も紹介し、日本人が
「農奴のような隷属状態」に置き「あらゆる労働を引受けるアイヌはただ同然」に搾取されて来た。日本人漁民らが深刻な性病をもたらし、
「アイヌは、梅毒を日本病とよ呼んでいる」
また、5年前に脱走徒刑囚たちがアイヌの集落を襲い、惨殺、拷問、性的暴力に及んだ事件の裁判経過も明らかにしている。

チュプチセコルさん
「死者の家を焼いて移動する、古くからの弔い方です。チェーホフは伝染病のせいと誤解しながらも、興味を感じて書き留めている。この慣習は、日本では明治初期に法律で禁止されました」
「チェーホフは、いつの世にも人間が犯してしまう罪の重さを見つめ、それでも絶望はしない」
「アイヌの娘に恋した脱獄囚が銃撃され逃げ惑う話しなど、暖かい眼差しも感じます。サハリン体験は、彼の名作『かもめ』や『桜の園』にも深く影響したでしょう」

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京都 2001/07/07 朝刊 17 No .N411k010707m17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像  26
見出し:
平賀源内と博覧会/知的好奇心の行方
メモ :
太郎冠者と次郎冠者が主人の留守中に「猛毒の附子(ぶす)」といわれた砂糖を平らげてしまう狂言附子。
附子とはトリカブトの根からとった劇薬のこと。平賀源内が国内外の珍しい鉱物、薬用植物、魚介類などを集めた博物書「物類品しつ」(1763年刊)は、巻末に木版画の産物図絵があり、そこに蝦夷地産のトリカブトも描かれている。
そこには蝦夷地産のイケマという毒性の強い薬草についても記述がある。
この博物書は、源内らの提唱で5回開催された薬品会(物産会)の展示品カタログといえる。

チュプチセコルさん
「珍種として紹介された植物は、アイヌの生活には大切なものでした」
「トリカブトの根はスルクと呼び、毒矢として狩猟に使った。イケマは魔除けとされ、根っこの破片を見の安全のため持ち歩いたり、根をかじり呪文を唱えて吐き出すと風が鎮まると信仰する地域もあった」
「西欧の博物趣味が大名たちの間に流行する中、源内の物産収集展示は近代の博覧会のはしりであった。当時はあくまで知的好奇心。しかし明治以降の内国勧業博覧会や拓殖博覧会は植民地主義を反映し、生きたアイヌらを見世物にする『人類館事件』も起きた。それに関わった人類学者・坪井正五郎らは、学者の仮面をかぶり民族に優劣をつけたのです」

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京都 2001/07/14 朝刊
No .N411k010714m19
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 27
見出し:
ナコルル リムルル/まかり通る「幽霊語」
メモ :
人気テレビゲームの「サムライスピリッツ」シリーズ(SNK)に登場するアイヌン少女ナコルルと、妹のリムルルは、数々の強敵と対決する格闘ゲームのヒロイン戦士たちだ。
東京都三鷹市は1994年の全国水道週間や、国民年金保険料の広報用イメージキャラクターに、ナコルルを採用していた。同士水道部のポスターには、北海道の雪山と湖の絶景に抱かれるナコルルの姿。キャッチコピーは「コップ1杯の自然を大切に」だった。
ゲームの中でのナコルルがバトルに勝った時の決めぜりふは「大自然の、おしおきです!」などだ。

ゲームや漫画の中に、アイヌ語の誤用や歪曲も目立つという。例えば、テレビゲーム「じゅうべえくえすと」(ナムコ)に登場する「チヌップ」と「ケチャップ」。

チュプチセコルさん
「アニメ『美少女戦士セーラームーン』の『月に代わっておしおきよ』を借りたにせよ、大自然とともに生きるアイヌ≠ニいうイメージが受け、好況のポスターにまで進出したのでしょう」
「それは現代とずれた天然ボケ≠フ印象も生み、ナコルル姉妹を悪質にポルノ化した海賊版コミックが出まわった。
著作権を持つゲームメーカーは、民族差別表現に抗議すべきだった」
「アイヌ語でキツネはチロンヌプですが、チヌップは意味不明。ケチャップは単なる受けねらいでしょう。語尾のップ≠ェアイヌ語っぽいというだけ。ナコルル・リムルルという名前も同様です。
日本語の乱れを懸念する声は上がるが、『幽霊アイヌ語』は堂々とまかり通っている」
「アイヌには言語を奪われた歴史があり、各地でアイヌ語を復活させる地道な努力もしている。言葉を軽々しく扱ってほしくない。アイヌの歴史や文化を尊重する視点のソフトが出てくれば、アイヌ自身も楽しめるし、ゲームの世界も豊かになると思うのですが」

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京都 2001/07/21 朝刊 11
No .N411k010721m11
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 28
見出し:
反逆者のポジション/天竺徳兵衛は悪党か?
メモ :
  怪しい鳴り物が入るとバテレンの不思議な呪文を唱え、巨大なガマを操る妖術使いの天竺徳兵衛(てんじく・とくべえ)は、人気歌舞伎の悪役ヒーロー。国家転覆を企む超人的な反逆者として描かれる。近松半二の人形浄瑠璃、鶴屋南北の歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)」などバリエーションが数々ある。

チュプチセコルさん
「近松門左衛門の『傾城島原蛙合戦』でガマ仙人の妖術を使う天草四郎が一つの原点。天竺徳兵衛は踏み絵に似た取り調べも受ける」
「天竺徳兵衛の衣装は、アイヌ文様入りの厚司(あつし)や北方の蝦夷錦。それらを江戸の観客達は、摩訶不思議な悪の力の象徴と見た。いわば、幕府への反逆者として同じポジションに立つ天草四郎とアイヌが、そこに凝縮されていた。
天竺徳兵衛の父・木曽官(もくそかん)は朝鮮人である。

チュプチセコルさん
「主君や一族を豊臣秀吉に殺され、復讐のため来日したというのが本来の設定。その陰謀は挫折し、息子に夢を託したのです。こうした根深い背景を、明治以降の歌舞伎が簡略化したのは残念」
「天竺徳兵衛はグロテスクな悪党の魅力で喝采を浴びてきた。でも、朝鮮侵略、キリシタン弾圧、アイヌ迫害などの背景に新ためて注目すると、彼の戦いはあながち悪とは言い切れないかもしれない。」

天竺徳兵衛というキャラクターは、講談や映画になった児雷也(じらいや)、石川五右衛門などの幻術・忍術に影響を及ぼし、落語の色話「蛙茶番(かわずちゃばん)」にも出てくる。

チュプチセコルさん
「人気テレビゲーム『ONT』シリーズでもガマ仙人の妖術が重要なカギを握るなど、アウトロー天竺徳兵衛の影響力は連綿と今に続いているのです」


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京都 2001/07/28 朝刊 17
No .N411k010728m17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像 29
見出し:
弁財船の光と影/暴力と収奪の象徴
メモ :
加古川の下流で瀬戸内海に面した播州高砂(兵庫県高砂市)は、古くから海陸交通の要衝。貿易船で東南アジアを旅したという、江戸初期の高砂の船頭」、天竺徳兵衛(てんじく・とくべえ)は歌舞伎のモデルにもなった。

江戸中期の船頭、工楽松右衛門(くらく・まつえもん)も高砂の人。「工夫を楽しむ男」として幕府が工楽姓を与えた発明家で、帆布の改良の功績は海事史に残る。従来の帆は木綿を二枚重ねにしていたが、「松右衛門帆」は木綿の太糸を厚く丈夫に織り上げた。
北前船は明治中期に衰退するが、全盛の江戸後期には代表的な船型を「弁財船」と呼んでいた。
アイヌの叙事詩に弁財船が出てくる。英雄神オイナカムイの留守宅に、刀を帯びた和人の船員達が現われ子どもを殺害。妻を誘拐し弁財船の帆柱に縛り付けてしまった。怒ったオイナカムイは船底に大きな穴をあけ、和人達を沈めた…。

チュプチセコルさん
「加古川は水夫(かこ)にちなむ。播州は河内と並ぶ木綿生産地域で、木綿需要の高まりとあいまって水運が発達していった」
「関西と蝦夷地を結ぶ北前船もこの帆で一段とスピードアップ。航海の安全性、商売の確実性につながった。これを背景に、商人の貿易場所請負(漁場経営)も蝦夷地から千島列島へと広がっていく。
場所請負人の高田屋嘉兵衛(淡路島出身)は千島のエトロフ島に航路と漁場を開いた。後にその漁場を継承した栖原屋(紀州商人)は明治期には千島に缶詰工場までつくって栄えた」
「蝦夷地でただ同然に仕入れた昆布などの産品が、関西を中心に膨大な利益を生んだ。北前船は富をもたらす船という意味で、弁財船と呼ばれたのです。アイヌはその日本語からベンチャイセンと呼んだ」
「叙事詩が物語るように、弁財船はアイヌの富には結びつかなかった。逆に暴力と収奪の象徴だった」



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京都 2001/08/04 朝刊 17
No .N411k010804m17
シリーズ・特集;チュプチセコルさんと考える 日本の中のアイヌ像  30
見出し:
河鍋暁斎の絵馬/より良い関係を
メモ :
明治の初め、北海道豊頃町の大津稲荷神社に奉納された絵馬に、5人のアイヌが描かれた。正装した長老に、女性と少年も加わっての酒宴の光景。背後の海原で弁財船(北前船)が帆をいっぱいに広げている。絵馬は2001年3月、北海道の有形文化財に指定された。

作者は幕末・明治期の日本画家、河鍋暁斎。1869(明治2)年の「場所請負制度」廃止に伴い、十勝大津の漁場を去った福島屋配下の船頭が奉納した。アイヌ労働力が和人の漁場経営を支えた歴史を物語るが、奉納の意図は不明だ。

反骨の人・河鍋河鍋暁斎は、生涯北海道に行っていないが、アイヌ差別の実態をルポした旅行家・松浦式四郎と交流があり、彼の「西蝦夷日記」に挿絵を書いた。

チュプチセコルさん
「江戸期には航海の安全祈願に、北前船を描いた『船絵馬』を奉納した。その多くは大阪の工房で作られた。一方、河鍋暁斎の絵馬は平沢屏山のアイヌ風俗絵などのコラージュ。幕末から、著名画家に巨大な絵馬を注文するのが流行していた」
「奴隷同然に漁場労働をさせられたアイヌの立場から見ると、絵馬の後景の北前船は、新たに忍び寄る不気味な影のようにも映る。明治は、開拓史による迫害など、さらに暗い差別の時代の始まりであった。こういう警戒心を、アイヌはいまでも持っている。」

「宮司で画家の富岡鉄斎も、若い頃松浦式四郎と交流があり、自ら北海道を旅して『旧蝦夷風俗図』をかく。荘子の賛を載せ、文明に独されないアイヌ社会への憧れを込めた。
それと同じように、癒しを求めようとする現代の若者たちが、よく北海道のアイヌのもとを訪れる。接触を求める割りに、アイヌの苦悩の歴史や今の問題を知ろうともせず、相変わらず一方的な幻想に酔っている」

無自覚な理想化や友好気分はおぞましい。他者を創造し、共感する力。それを点検しなおして、より良い関係を築いてゆく時だろう。


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