「化石」になって思い封じた


 バターをぬったトースト1枚に牛乳。夫がいつもの朝食を食べ終えるのを見計らい、一人で食卓につく。6月4日、午前7時。テレビのニュースに目がいった。父親が8歳の女の子を木に宙づりにし、死亡させたとされる事件。「紙一重だったなあ」。過去がよみがえる。

 小学生のころだ。妹が転ぶと、「しっかり面倒をみてないからだ」と父にしかられた。牛小屋のはりに縄をかけ、何度もつるされた。怪しく光る丸い牛の目。もがき、疲れ、父の怒りが収まるのを待った。祖母が時々助けてくれたが、母は来なかった。

 父は特攻隊に志願し、訓練のさなかに敗戦を迎えた。軍隊流で子育てに当たる父に、長女の私は「はい」としか言えなかった。

 廊下の隅に机があった。中学3年の夏。日記帳を引き出しにしまわずに登校した。その夜、居間に呼び出され、父に日記帳を突きつけられた。

 同級生に好きな男の子がいた。すれ違いざまに、ちょっと目が合う。その日は「2人は固く見つめ合った」と書いた。彼との夢を描き、父への憎悪を書き殴っていた。

 「女が物欲しそうなことをするな」。怒鳴られた。

 親に頼らずバイトをかけもちし、夜間の大学に通った。仕事先で夫と知り合った。気遣いのいらない人だった。

 若いころから夫は積極的ではなかった。一つの布団で寝ていても背を向けられる。「私たち少ないんじゃない」と言うと、「仕事が忙しいから」。言葉は返せない。物欲しそうなことを……。父の言葉が頭をめぐる。

    ◆   ◆

 「あなたはできない体なの」。結婚3年目。近くに住む義母を買い物に誘ったとき、スーパーのエレベーターでいわれた。周囲の目が痛かった。

 なんとかしなきゃ。気持ちは焦る。でも「今日お願い」の一言が口にできない。

 ある夜、眠りかけた夫に抱きついた。夫は最後まで無表情、無言のままだった。この機会を逃したくないと、泣きながら逆立ちし、そして妊娠した。

 年より若く見える夫は、独身と偽って浮気をしていた。いつ、どこのホテルに泊まり避妊はどうしたか。聞き出し、紙に書き上げた。夫の子がどこかにいると考えただけで、虫ずが走った。

 高卒をコンプレックスに思う夫のため、自分が働き、大学にも通わせた。家事も、息子の学費も工面した。

    ◆   ◆

 今、関西の学校で教壇に立つ。「先生、生理がないよ」。授業中、女子生徒が大声で聞いてくる。その明け透けな言葉に最初は倒れそうになった。

 いつも、父親の影を引きずっていた。夫への思いも欲望も封じ込めてきた。

 「生身の体を化石にして耐える修行僧のようでした」

 今年2月、生理が止まった。「女」に限りがあることを知った。きっと離婚はしないだろう。でも最期は、夫と一緒の墓にだけは入りたくない。風葬にしてほしい、と思う。

(07/05)