「薬」で気持ちは置き去り

つないだ手は――高齢期の生と性:4


 いつもはうるさいほどの夫(72)の小言が、その日、ぷつりとやんだ。

 昨年の正月明けのことだ。

 病院から帰ると「もらってきたよ」と明るい顔で私(68)に見せる。薬袋には青いひし形の錠剤が五つ。一目でバイアグラだとわかった。

 50代半ばで糖尿病を患い、ままならない体にいら立っていた夫は、その日を境に、変わった。

 数日後、警察から電話が入った。「このナンバーはおたくの車ですか」

 駅前の歓楽街に駐車違反しているという。趣味の会の集まりで出掛けたはずなのに。薬袋をのぞくと、錠剤が一つ消えていた。

 その夜の食卓。

 「持ち出したでしょ」

 「いや」

 平気な顔でうそをつかれた。「この期に及んで浮気なんて」。これまで耐えてきた自分が情けなく思えた。口もきかない日が、1カ月以上続いた。

 中国地方の小さな町で2人の子を育て、互いに地方公務員を退職。夫婦だけの生活も15年が過ぎた。

 女は一歩下がって控えめに。元々そう考える人だ。

 「前を歩くでなく後ろをついていくでなく、男女一緒に歩く時代でしょ」。隣町であった女性フォーラムで共感した考えを夫に言っても、まったく通じない。

 ちょっと出掛けようとすれば「家をつぶす気か」と声を荒らげる。体調を壊し家事を怠ると決まって文句が出る。

 「たまにはやってくださいよ」と言い返すと、お茶わんも洗濯も、自分のものだけを洗う。

 「浮気」が10年早ければ、離婚を考えただろう。

 「あと何年元気でいられるか。自分の入る墓をなくすわけですからねぇ」

 3月に10錠、4月にも10錠。夫は次々と手に入れた。そして夜、私にも近づいた。「またよそに行かれても困る」。そう思い耐えようとしたが、一方的な振る舞いが許せない。我慢できずに布団を2階に上げた。

 年寄りにいくら何でも多すぎないか。病院に電話をすると婦長は「ご本人が希望すれば出します」。あまりうるさく言えば夫の顔をつぶすと思い、電話を切った。

 昨年暮れ。あきらめに似た気持ちで、居間にいた夫に切り出した。車で遠出をするたびに、錠剤は減っていた。

 「老い先短いのに、2人で仲良くしていかなくてどうするの。私はどうやって生きていけばいいの」

 夫は突然、自分の頭をポカポカたたき始めた。「行動で示すから」と謝りながら。

 円満な夫婦生活を送るための薬で、まさか老後の人生を振り回されようとは。

 「老いを受け止められなかったんでしょうか。無理せず素直に年老いていくのが、難しい時代になりました」

 今年になって、私を裏切った負い目からか夫の小言が減った。布団は1階に戻した。

 寒いので、こたつの両側から足を入れて寝ている。夫にはまだ、触れる気になれないけれど。

(02/14)