本当の恋をしてみたい

つないだ手は――高齢期の生と性:3



 「人生で一番大切なのは愛情。恋人がほしいねえ」

 痴ほう症の高齢者が暮らす首都圏のグループホーム。10畳ほどの自室で、正さん(91)がしみじみと語り始めた。

 正さんはいま、職員の雪ちゃん(27)に心を寄せ、夜、ミルクコーヒーを飲みながら語り合うのが楽しみだ。

 「90になったら達観して生きやすくなるかと思ってたけど、70代と変わらない。本当の恋を一度もしたことがないのは、さみしいねえ」

 職員のノートにまで「結婚できない? 不可?」と熱い思いを書きこむ。

 トイレの仕方や自分の居場所もわからなくなるが、自分のノートに「人間に生まれて人間が分からない 人間に生まれて人間をもて余し 年をとってたださみしさがますばかり」とつづる。

 自室の壁一面に張った模造紙に、自分で描いた小さな裸婦が横たわる。

 愛を熱く語る正さんだが、長女の幸子さん(54)にとっては「クールな父」だった。

 正さんは信州の寺の次男に生まれ、小学校3年生で東京の親せきに養子に出された。「正はやらないで」と祖母に泣いて訴える母を、襖(ふすま)の陰から見つめていたのを覚えている。「親の愛情を強く感じたのは、この1度だけです」

 養父母はいい人たちだったが、どうしても「お父さん」「お母さん」とは呼べなかった。いつもどこかで自分の気持ちを抑え、遠慮していた。

 30歳で恩師に紹介された10歳下の女性と結婚し、二男一女に恵まれた。彫刻の仕事に没頭し、あまり家にいなかった。休日も1人で美術館に出かけた。孫ともほとんど遊ばず、お土産を家族に買ってきても、自分の好物のバナナ。子どもたちを思い切り抱きしめることもなかった。

 2年前、痴ほう症がひどくなり、妻と2人でいまのグループホームに入った。だが、妻は夫と同室にいるストレスから体調を崩して病院に入院。退院後は別室を選んだ。

 正さんは「もし人生をやり直せるのなら、養子に行きたくなかった、とはっきりいいたい」という。

 グループホームでは、地位も名誉も関係ない。いろんなことがそぎおとされて「素」の人間にもどるという。

 幸子さんは、父がこんなに長生きしなければ、痴ほうにならなければ、父の人生をこれほど考えることはなかったと思う。「90になっても、子どものころ得られなかったものを取り戻そうとしていると思うと、切ないです」

 2月初め、日差しの暖かな昼下がり。正さんは雪ちゃんと散歩に出た。手をつないでダイコン畑をぬけると、青空に紅梅が鮮やかだ。

 雪ちゃんが聞いた。

 「本当の恋って、どんな恋なんですか」

 「生きててよかった、と思うような恋。自分の気持ちに正直でないとできないね。でもぼくは憶病だから」

 「憶病って?」

 「傷つくことに……ね。自分に自信がないのか。人間を信頼していないのか。死ぬまでに本当の恋をしたいね」=文中仮名

(02/13)