不妊:下 夫から

つないだ手は――夫婦になって

 いつも通り午後11時に僕(38)が会社から帰宅すると、妻(38)が便箋(びんせん)を差し出してきた。4年前の秋。半年後に建てるマイホームの間取り図が、裏側に書かれていた。

 1階は20畳の広いリビングと台所。2階は寝室と和室の客間。ゆったりとした空間がイメージできた。そして、子ども部屋はなかった。

 「ええやん」

 思わず関西弁がでた。

    *

 妻の決意が分かり、むしろホッとした。

 結婚して1年半たち、妻から不妊治療を切り出された。「子どもが欲しいんだな」。単にそう思っただけだ。だから、「あなたも検査して」と言われて素直に応じた。

 いつもより1時間早起きして、出勤前に病院に行った。6畳ほどの清潔な「採精室」には、小さなテレビとソファが一つ。ポルノ雑誌と十数本のビデオテープがあった。

 「半分以上こぼしてきたわ」。家に帰って、そんな軽口をたたいたのも、妻へのいたわりだった。

 妻と出会ったころは、細かいところに気が利く優しさに魅力を感じた。なのに治療が始まると、妻はだんだん感情的になった。

 「最近私にかまってくれない」「家事を手伝ってくれてもいいじゃない」

 営業用のパンフレットやノートパソコンを詰め込んだ重いカバンを手に、疲れて帰っては、毎晩のように言い争った。妻はカバンの中身を床に放り出し、本や化粧ポーチなど手当たりしだいに投げつけた。自分もいら立ち、壁を殴って穴を開けた。

 治療では性交渉の日が指定される。

 「今日、病院に行ってきた」。会社にかかる妻からの電話に、気が重かった。セックスは「義務」になった。

 「不妊治療なんてもういい」。そう思いながらも言い出せない。必死に治療を続けている姿を見ると、どうしたらいいのか分からなかった。

 正月の年賀状もそうだ。

 夫婦でつき合いのある友人からのはがき。赤ちゃんの写真を見つけて、妻は「なぜ教えてくれなかったの」と突っかかってきた。

 「黙っていた気遣いが分からないのか」。言い返す気もなくなった。

 約2年半、人工授精、体外受精と試みても妊娠しなかった。32歳になる年の夏、夜遅く妻が話しかけてきた。小さなテーブルに向き合って、冷たいコーラを飲みながら。

 「しばらく病院にはいかない」

 「他人のことなんか気にしなくていい。夫婦二人の生活もいいじゃないか」。初めて自分の気持ちが言えた。

    *

 不妊治療から離れて7年になろうとしている。毎朝7時すぎ、妻と「いってらっしゃいのキス」をする。玄関で妻が唇を近づけるのを待つ。

 カバンを持って扉を開ける。表札の上に風見鶏。男女が手を取りあうデザインを、妻と一緒に選んだ。

 どんなに強い風が吹いても、くるくる回ってダンスを踊り続けるように。

(04/16)