Top Pageへ戻る

飛び上がり自殺

見えない辛さを抱えながら生きているあなたとともに

これは1990年の秋に創作した小さなお話です。
その2年前の秋、担任していた高校2年12組の学級通信に載せた短いお話が元になっています。

その秋も授業では夏目漱石の『こころ』をやっていました。
そのクラスにも不登校の生徒、家庭不和で不安定になっていた生徒、長く看病していた母親と死に別れた生徒など、見え隠れする生き死にの辛さが溢れ、担任もかなりまいっていました。

そんな秋の夜、私は飛び上がり自殺という事実を知ってしまったのです。

はじまり
夜の窓へ 管理人室へ








































       
     飛び上がり自殺



友香里はお腹をすかせ、重たいカバンに体を傾けながら歩いていた。電信柱の街燈の下だけが薄ぼんやりと明るい道には、人気がなかった。ただ自分の影だけが、歩みにしたがって、前に行ったり後に行ったり、伸び縮みしながらまとわりついている。昔は遊びの楽しい仲間だった影も、今は友香里を苛立たせるだけだった。友香里はしだいに歩みを早め、家の間近の角を曲がるころには小走りに駆けだし、家のドアに飛び込んだ。

「ただいま。」
「おかえり。なんで走って帰ってきたの。ご飯できてるから早く食べて、学校の宿題と塾の宿題かたづけて、さっさとお風呂に入りなさい。あ、かおりちゃんから電話かかってたけど、ちょっとお使いに行ってもらってるって言っといたわよ。前はよくいっしょに勉強してたのにこのごろはさっぱりね。ああ、そうそう、昨日の晩お父さん帰ってきてからユカの志望校のことずいぶん気にしてね……ユカ聞いてるの?」
「もうわかったから、ご飯の時くらいほっといてよ!」
「ほっといてはないでしょ。心配して言ってるのに」
「お母さんが心配してるのは私の成績だけでしょ!」
「そんな……」
「ごちそうさま」

友香里は遅い夕食を早々にすませ、2階の自分の部屋へかけ上がった。いつものように電気を消した自分の部屋の中でじっと目を凝らしていると、窓枠がうっすらと浮かび上がり、遠くを走る車の音だけが聞こえてくる。
ここには心をかき乱す、口うるさい母親もいなければ目ざわりな影もない。静かに自分を包み込んでくれる暗闇の中で、友香里は日記帳を開き、白くぼんやりと浮かび上がる紙の上に小さな文字で書き込んだ。

誰にもわかってもらえない私をわかってあげられるのは私だけ。友達なんてうわべだけ。恋人(もともとそんな人いないけど)なんて面倒なだけ。私は誰にもじゃまされないで、ただ一人この闇の中で夢を見る。


もう2月半ばになっていた。戻ってきた模擬試験の結果は散々だったうえ、いっしょに受けたかおりは、自分よりずっと成績がよかった。むなしくガランとした心には、通りかかる家々のカーテンからもれる光も、揚げ物の香も、ピアノの音色も、何かよそよそしく遠いものに感じられた。

いつもの曲がり角に近付いた時、寒々とした街燈の明かりの下に、白いものが浮かび上がっているのに気づいた。はじめはネコかと思ったが、それは道の真ん中にきちんとそろえて置かれた、1足のスニーカーだった。友香里はゆっくり歩調をゆるめながらそこに近付いた。そして自分の影がその靴の上にかかった瞬間、友香里の口から自分でも思いがけない言葉が飛び出した。

「飛び上がり自殺したんだ。」

友香里は、飛び降り自殺する人が靴を脱ぎ、その下に遺書めいたメモを置く場面をテレビで見るたびに、なぜ自殺者は靴を脱ぐのかとぼんやり気にかかっていた。そのわけに、いま気付いてしまったのだ。

この世で希望を見つけられなくなって、この世と自分に絶望してしまった人の本当の望みは、死ぬことじゃない。ここ≠ナかなえられない望みをどこか違う世界でかなえることなんだ。ビルの屋上や断崖絶壁に立って、はるかな世界に鳥のように飛び立とうとするんだ。この地上で靴は必要でも、空の彼方の世界に靴はいらない。でも、ほとんどの人は飛び上がり自殺に失敗して墜落し、体は地上にたたきつけられ、悲しいことに死んでしまうんだ。じゃあ、もしここ≠ゥら、道の真ん中で飛び上がり自殺をしてみたらどう。そうよ、この人と同じように。私だって。

友香里は素早く辺りを見回しカバンを置くと、街燈を背に空を見上げた。そして、ゆっくりと息を吸い込み、自分にささやきかけるようにまたたく小さな星に向かって両腕を挙げ、願いをつぶやこうとした。

「私の願いは……。ちがう、そうだったのよ。私の本当の望みは……。」

友香里は言葉に詰まった。そして、地上に突っ立っていた。空に向かって差し出した手に、長い息が白くかかった。冷たいほほに伝う涙が熱かった。友香里は、涙をぬぐいながら下ろした手で、カバンを拾い上げた。アスファルトにへばりついている自分の影を引き連れながら角を曲がった。

家にはいつもと同じように母がいて、ドアを開けるなり試験の結果を問いただした。

「ねぇ、何番だった?ちょっとは上がった?」
「もうそんなことどうでもいいの。」
「何言っているのよユカ。ユカ、あなた泣いてるの?そんなに悪かったの?」
友香里は何も答えず、そっと2階に上がり、窓辺の机に向かうと、日記帳を取り出しペンを走らせた。

今まで見えなかった人たちが見える。公園のベンチに、満員電車に、私の教室に。
飛び上がり自殺に失敗した人たち。
飛び上がることを止めた人たち
      人という字

人という字は二人の人が支え合っている姿だ。
右は短く左は長いが
確かにそこに二人いる。

人という字は二人の人が支え合っている姿かしら。
右は支えているけれど
左は支えられているだけだもの

右が重みに耐えかね左を捨てた。
左は一になり
右は1になった。

形が違う。
力が違う。
二人だから人になれる。




ページのはじめにもどる